fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

ファティマの意味。

食べていい理由、絵を描いていい理由を、聖書に基づいて説明 の項は下記アドレス(このブログの記事)。
 
正義感が強く心が真っ直ぐな、あるいはやんちゃな、若い者は、真っ直ぐ暴走するバイクと同じだ。風を切って飛ぶ飛行機と同じだ。
まわりの風の迷惑など見えていない。
生物は自分の生きている事の残酷さに気付いていない。あるいは忘れている。
気付いたひと達が自殺して行く。彼らには見えるんだ。生物の醜さが。
他を、弱い者を、殺すから、自分の生命を永らえる事ができるシステム。
 
ファティマの意味は「離乳させる」。
ちなみにヘブライ語で「離乳させる、報いる、返礼する、報酬を与える(動詞)、駱駝」はガマル(gamal)。
これはヘブライ語のG(ギメル)の語根だ。
駱駝は英語ではキャメル。カメリア(椿)の事だ。私の母の旧姓は「春木」。春木家は「椿」の分家だ。
私は椿の血が流れている。それがファティマの手のしるしが私を選んだ理由。
でも何故春木の氏を持つ従兄弟や従姉妹ではなく、私を選んだのかは謎だ。
 
「離乳する(動詞)」は、ニグマル(nigmal)と言う。終わる、尽きる と同じ。語根はgml
「乳離れ、離乳(女性形名詞)」は、ゲミラー(gmylah)と言う。
「離乳させるもの」であるファティマは、殺す事の無い食料である母乳から、殺して食べる食料(歯で噛んで食べる食料)である大人の食べ物を食べる者へ進ませる者。「動植物の死骸を食べさせる者」だ。
それが私の邪眼のしるし。
千手千眼の一のしるしは、餓鬼道から救済するものの1/1000のしるし。
私の2つのしるしは「食」と深いかかわりがある。
仏陀も、スジャータにはじまり、チュンダに終わる。
 
動植物を殺させ、より栄養価の高い死骸を、判別する。
生物が脈々と繰り返してきた事だ。
「食」とは「動植物を殺して死骸を食べる事」であり、生物が必ずする事なのだ。というか、「食べるから生物」なのだ。
「食べない者」は生きていない。
「食べる事」は大事なのだ。
「排泄する事」は身体を腐らせない為に大事なのだ。排泄はお風呂で垢を落とすのに似ていて、身体の中の垢を落とす事。
 
排泄する度、身体はきれいになる。
 
これらをするから「生物として生きている」という事なのだ。
 
「回転」。それが「動」の世界であるこの世界の本質。
「出し入れ」。それが生物の根源。 
 
でも人間はまだ、死体を焼くので、死体を使って作物を育てようとはしない。死骸は栄養価が高いのだ。
人間の文明の都は何故か砂漠となる。森でもなく、水辺でもなく、砂漠。
海の砂のような人間達をふるいにかけても、砂はすべてふるいから落ちて行くだけ。
君が代」の歌詞を思い出してみよう。
さざれ石の巌となりて。それが大地の力だ。プレス(圧)する事でくっつけて大きくする。
砂はどうだろう?砂地は液状化現象が起こるほど水に弱い。
きめが細かい滑らかな物を好むひともいるけど、砂漠はどうかな?
砂を固める技術はあるけどね。鳥取砂丘のモアイ像がそれだ。テレビでやってた。でもそれが溶け出したときの人体への影響はどうなのだろう?
砂は、風や水ほど滑らかではない。身体に付着しているだけで異物感がある。取りたくなる。風も水も寒いときはあるけどね。
 
話を戻すか。
排他的に真っ直ぐ、狭く、光に進む者は、自分とまわりの醜さが見えていない。目に入らないのだ。
その光が自分の闇を色濃く浮き出している。
ひとびとは闇の中を、迷い、彷徨い、まわり道をして、自分で何かを見出すもの。
光が見えている(ベクトルの発生している)者の暴走に、まわりは振り回され、かき回され、また彷徨う。
他から与えられた光など、自分の光ではない。
だから
私は与えられたら棄ててしまう。まわりは憤慨する。
私は見つけたら暴走してしまう。まわりはそれに耐えなければならない。
自分勝手とか贅沢とか言われるかもしれない。
でも自分の光と自分との間に、何の介入もゆるさない。私は嫉妬深いのだ。 
 
ぴったりじゃない事の方が、最適じゃない事の方が、ガチじゃない事の方が、贅沢なんだよ!!!!!
ふざけんな!!!ぴったりで、最適で、ガチこそいいんだよ!!!
 
すべての民を救うお方が、私に合うわけがない。
みんなにいい顔を見せるものが、私に合うわけがない。
多くの者に愛される方が、私に合うわけがない。
それらをすべて棄てて私を選ぶ者でなければ、私には合わない。これはキリストも思っている事だろう。
すべてを捨ててキリストを選ぶ者でなければ、キリストには相応しくない。でも向こうは誰をもゆるす方だ。
この違いがわかるだろうか?
すべてを捨ててキリストを選んでさえ、キリストをひとりじめする事はできないのだ。
すべてを捨てて父なる神を愛しても、父なる神をひとりじめする事はできない。
尽くせば、尽きる。
愛を尽くせば、愛は尽きる。
私は嫉妬深いのだ。私はいい子ほど物分りがいい者ではない。
譲れないものをさえ譲るようなグニャグニャな方とは違うのだ。
アガペーの出力永続は人間には不可能。人間には不可能だから神は輝くのだ。
新約聖書を読んで最初に思った事は、完璧主義なのに自分の事もままならない私に、さらに無理難題を積んでいる。という印象だ。人間に不可能な事を要求している。人間には不可能だから神は輝くのだ。
完璧主義の者がこれを実行しようとすれば、法に殺されてしまう。自分の内に愛する愛が無い状態に死んでしまうのだ。完璧主義は人間のおごりだ。人間は失敗をしつつ前に進む生き物。汚れ、きれいにしつつ前に進む生き物。
汚れる事をおそれて掃除などできない。掃除する者はきれいにする方法を知っているものだ。
汚れた潔癖な自分を全否定する前に、自分をきれいにする方法を全力で探そうよ!
無垢な幼い子供を見ると、自分自身まで洗われて無垢になれるような気がするよ。自然に笑顔が出てくる。
でも乳飲み児は自分の排泄物で汚れた自分の身体を綺麗にするすべを知らない。
乳飲み児(タダイ)が絶望者の希望と言われるとおりだ。
育ててる者には、眠っているときは天使のようだけど、起きているとハラハラする存在なのだけど。
 
自傷行為で自分が生きている事を実感するひともいるけど、すでに圧で心から血が吹き出ているから自傷行為にまで向かっているのに、生きている事を実感できないのだろうか。 すでに心が悲鳴をあげているのだ。
ノートに文にしてぶちまけてみればいいのだ。自分をさらけ出して。シュレッダーも用意して。
食べて、排泄する。これがすでに「生きている証拠」だ。
多分「生きている実感」というのは、「生きている意味」を求めていると思う。
 
電車の中で憤慨しながらいい事言ってるひとがいた。誰かは知らない。
誰か「自分が今まで生きてきた事に自信持てばいいのに!」
うん。それは確かな事だ。誰も疑いようが無い。信用できる事だ。これ読んでるひとも確実に生きている。
 
生きている意味を求めるっていうのは、今すでに生きている自分そのものを、受け入れてくれるひとがまだ見つかっていない、あるいは失ったからだと思う。
人口数十億人もいるのに、ただひとりさえ見つからないんだよね…。
探せば、求めれば、見つかると思うけどね。
愛に飢えてるひとって結構多いから。
 
ああそうだ。私に失うものはまだあった。
童貞。
童貞は失ってなかった。
まあ失う予定も無いし、関係ないだろうけど。
 
 
静かなのがいい。
統合失調症患者は、静かな環境で落ち着かせるのが一番いいのだ。
じゃかましいと患者は、猫に追い詰められたねずみが猫を噛むように、奇行に走る。
 
自然の音を楽しむ豊かな心を、みんなは退屈と言って失っている。
雨の音、秋の虫の音、草木の風で波打つ音、風の音、波の音、燃える木のはぜる音、水の静かに流れる音。
 
人間が好きなら、着物を着たり脱いだりする音(帯の音)、服の擦れる音、ベッドや布団などの擦れる音、息の音、声…他なんだろう?あまりよくわからない。
 
人間に疲れていると、人間がすきじゃないと、ひとの匂いのしない物、ひとの匂いのしない場所にあこがれたりする。でもそこでは生きて行けない。ずっとは居られない。
世捨ての修道士じゃあるまいし。
日本で軟弱に育った私が、ジャングルで生活できるわけでなし。
今の修道教会が自給自足の世捨て場所にあるとは思えない。
今の日本人は、日常、お寺や教会や神社に、毎日行くような事は無い。
敬虔な信者や教会巡りや巡礼や遍路くらいだろう。
私は、それらはひとと密接に関係していると感じている。有名な教会やお寺や神社などは、ひとが多い。
肝試しスポットなんかはだいたい、ひとの生活の匂いはしないけど、ひとの匂いがする。お墓とか人工のものだ。
 
私は家に居ても、部屋に親が来るのは不快だ。
お風呂出たよ とか、どうでもええのんじゃ!
部屋出たときお風呂の電灯見たらお風呂に居るか居ないかぐらい一目瞭然なんだ! いちいち言いに来るな!
猫が寝てるときに撫でに来るな!猫が戸を開ける度に様子を伺うようになってしまっている!安眠できるところを求めて家の中をうろうろ探すようになった。
安心して快適に眠れるところがあれば、寝てるときに撫でたり起こしたりしないなら、猫はうろうろしたりしない。
でもそれは私にも悪いところがあって、起きてるときだけどモフったりしたからだ。
猫はモフったり撫でたりするのを、テリトリー荒らしにしか思ってないだろう。イライラして尻尾ふってるし。
尻尾ペシンペシンやってると、あっイライラしてる…イライラしてるっっ あーウゼぇとか思ってるっ って気付くんだよね。
 
 
寝てたら聞こえてきた。
寝てるときの幻聴「~さんお叱りください はいどーぞっ」シーン
 
寝てるときの幻聴「みんな、よくが、嫌い?」
 
寝てるときの幻聴「助けてくれ」
 
今年満月の「最後の晩餐日」か?十五夜だからって満月とは限らないか。
5日今夜月齢14.0か。新月は一日からだから…。明日ぐらいかな?本には今年は7日土曜日って書いてあるけど。
過越祭(ペサハ)は曜日じゃないからねー。月齢だからねー。復活祭は曜日だけど。
そういや安息日が過越の日だったらどうするんだろう?イスラエルのひとに聞いてみたいもんだね。
まあ御飯食べるのは仕事じゃないらしいから食べるだろうけど。
 
 
水瓶座アクエリアンエイジ(ガブリエル、ジブリール、カンビエル、ガムビエルの時代)が終われば、
山羊座(バフォメット。ファティマの親のムハンマド。眼。タロットNo.15「悪魔」)の時代が来るよ。
 
つまり、アクエリアンエイジが終われば、アッラーイスラム教の時代が来る訳だ。
 
マリク(悪魔や罪人を無慈悲に拷問し続ける天使。王。天使。仕事。つまり仕事が悪魔や罪人を無慈悲に拷問し続ける。)くらいいっぱいいるでしょ。
仕事に就いてるひとの数だけマリクは居る訳で。
悪魔そのものが悪魔にとって無慈悲な仕事で苦悩している訳で。
 
 
ファティマの語源は、
ある本には、
fatum(なされたこと。運命。宿命。)に由来するラテン語fataeと同語源。
 
運命のラテン語パラカエが「祈りと歌」で個人の運命を決定したという原理を従え、口にされる言葉の魔力に結びついている。
祈りと歌、
カリスマのリズムに乗せて歌った歌もある。
 
パラカエよりも古いギリシア語のモイラは、おそらくラテン語のmors(死)に関係している。マルスも関係あるだろう。