誰でも持ってる「眼(アイン。ネトラ)」つまりNo.15「悪魔(デヴィル)」は、「すべて(パン。パーン)」なんだ。
「宇宙や世界(土星)」より範囲が大きい。
「すべて」だよ?
うじゃ(有情)だけじゃないんだよ?無情だって含むんだよ?
あらゆる場所や、あらゆる時間や、あらゆる存在や、あらゆる有機物や、あらゆる無機物、だって含むんだよ?「そうです」
全知全能は、知と、能の、全部なだけだ。
お前ら幻聴に眼があるか?
ね?
統合失調症患者が100にんにひとりなわけだ。
その悪魔達のボスが、サタンである天主の木星なんだ。火星と憤怒を司る。
サタンの他にルキフェル(またはルシファー)を置く事で、
木星より明けの明星の方が明るいから。夜が明ける前の一時的だけど。
レヴアタン(地獄)は、すべてのおごりの子を支配する。支配とは支え配る事。月と嫉妬を司る。
地球から見たら、
太陽、満月(望月)、明けの明星(宵の明星)、木星
の順に明るいわけだ。「そうです」
しかし七曜の「惑星や恒星や衛星」を司る、天使や悪魔はいる。
七曜の守護星が、一番偉いわけじゃないんだ。ボスが一番偉いわけじゃないんだ。
よくわかりました方がいい?
具体的には、
蛇使い座の産まれの冥王星。
司るわけじゃなくて、守護星だ。
「なん回ゆーても(繰り返し)なんにも要らない(繰り返し)」
「惜しかったねっ(繰り返し)」
ディアボロス(中傷を投げる者)の
diaって、「中傷」の事だけど、
「中傷」の意味みんな間違って考えてないか?
中傷
無実のことを言って他人の名誉を傷つける事。
証拠のない悪口を言いふらして他人の名誉を傷つけること。
無実…「そうです」
無実のこと
証拠のない悪口
っていう点に気付いているひとは、まだ少ないんじゃないかな?
これは、はっきりと、ディアボロスの意味を知っているひとは、
必ず、「中傷」という言葉を使うと思う。
「中傷 (無実のこと) である」 という事は、脳裏に深く刻んでおいた方がいいだろう。
「中傷」について、国語辞典で調べてみたらいい。
すべて が、「事実と証拠に基づかない悪口」
実際は、diaは、~を通って、~の故に、~のために
という意味で、
ballw が 投げ込む
という意味だ。
diabainw が 渡る
diaballw が 訴える、中傷する
diabebaioomai が 主張する
なので、diaそのものは、「中傷」ではない。
diaballw が 訴える、中傷する の動詞なのだ。
ディアボロオは、
投げ込むために
投げ込む故に
投げ込むのを通って
ディアボロスの意味は、
「投げ込むための者」 「投げ込むための通路」
ディアボロス自身が投げる(権限がある)わけでもない。
使われているだけなのだ。
「投げ込む」とは、
投げて中に入れる。投げ入れる。
野球で、投手が十分に投球練習をする。
「投げ込む」 なので、
「射精でもない」し、「男根を入れるわけでもない」。「近接しない」。
耳と心(脳)しか関係ないのだ。
当然、
何者に対しても、
「誰かが所有する、投擲器のような者」
「誰かによって、遠くから投げる機械のような者」
「むっだな抵抗(繰り返し)」
今私がそれを聞いてどう感じているか気がつくだろうか?
「抵抗(オメガ)している」のは、
「終わり(オメガ、電気抵抗)であるキリスト」であって、私ではない。
と考えを逸らせば、痛くない。
つまり、「終わり(オメガ、電気抵抗)」がずっと、
「味方として抵抗してくれている」
と考えている。
「何を聞いてもむっだな抵抗(繰り返し)」
終わりは終わらないものだ。
「無駄」とは、
むっだ とか言おうが、意味は、
「馬が太って、無い」=「馬が速い」という意味だ。
馬は走る為に産まれてくる。
抵抗は、電気抵抗とも言うが、
「無駄な抵抗」 とは、
「電気抵抗が速い馬のようだ」 という意味なる。
まあ「抵抗(終わり)が無くなって欲しい」と思ってないと言わないよね?
つまり、一生懸命言ってる者は、「この抵抗(終わり)に不満」なわけだ。
つまり、やり直したいわけだ。
終わったんでしょ?
「この終わりでないと困る」と思っているなら、
「終わった事」を主張はしても、
「この抵抗(終わり)」に不満は無いはずなんだ。
「無駄な抵抗(終わり。電気抵抗)」に帰依するんだね?
「お前らが、無駄な終わりを、迎える」んだね。
帰依するんでしょ?
「むっだな抵抗(繰り返し)」
そんなに 無駄な終わり を求めているのか。
お前らが繰り返し唱えている事柄ってのは、「真言」と同じだからね。
つまり、「お前らがお前らに言っている事」なんだ。「そうです」
「なんにも要らない(繰り返し)」
ドーパミンは脳内伝達物質と言うが、それは理論上の事であって証明されていない。
シナプスの神経伝達は、電気信号なのだ。
中傷に
視覚的要素は関与しない。
眼は、光を受けて、視覚的信号を伝える事はできるが、音声信号は伝えられない。「そうです そうです」
眼に、光の信号や、音声信号や、視覚的要素を戻す事はできない。
目玉が無くても、眼なので、光を受けなくても眼だ。
視覚的信号を伝えるのは、眼ではなくて、目玉だ。
眼は、眼の穴にまぶたっていう蓋がついている「穴」の方だ。
「蓋を開け閉めする」という機能しかない。
何に蓋をするかというと、
「目の前に広がる本当の現実の光の情報」に「蓋をして」、
「心の中だけを見せる」のだ。
「心の中だけを見せていた」のを、
「目の前に広がる本当の現実の光の情報」を見せるのだ。
でも、「眼の開閉」は瞬きとして脳が勝手にやってくれるが、
眼の開け閉めは、我々人間自身が、意識して開閉できる。
眠っていたり、意識を失っていたり、しなければ。
私のファティマの手の手相の邪眼や、千手千眼の一なんかは、閉める(蓋をする)機能もない。
なので、心の中に目を向けないのだ。
「なんべんゆーたらわからんらしい」らしいんだろ?
「惜しかった」
「惜しかった事実は無い」って事になるよね。
詐欺グループのタチの悪いところは、確信持っているかのように言う事。
基調のても系(幻聴の本体。「そうです」)のかあさん(奥さん)とやらは おばはんの声の 堪えとき のものだ。
「幸せーってなんだっけなんだっけ」道なんだろ?
「惜しかった(繰り返し)」 惜しかった事実はないよ。 「よかったね」
よかった事があった という確証もない。
言っただろう お前らの強みは「わからない事」だって。
お前らがやめときなさいっていうのは、
「思い入れしているから、苦しい」
って言いたいんじゃないのか?
キリスト教では、「すべて」すてて、私についてくる者でなければ、私に相応しくない としている。
仏教では、依存、執着するから、集めるから、悩む、苦しむ、としている。
でもキリスト教では、自分のものを保っていなさい とも言っている。
ファティマである私は、このブログの開設日の記事にも書いたように、
「悪い依存」「生活習慣病」を断ち切る役割であるはずなんだ。
「離乳させる」とは、
「甘美な乳汁だけの生活」から、「強い子である、殺して歯で食べる食事をする生活」にする役割だ。
万歳こそ万歳だよね。
「よくわかりました方がいい」ても系のわかったのは、おばはんの声色の堪えとき のものでしょ?「そうです」
よくわかってないじゃん。「なーるーほーどー…」
いずれにしてもここは、アダム・クァドモンの身体の中じゃないしね。
ディアボロスにとって、すべての場所があるのに、お前らは「私の心の中」を選んだんだから。
どこから聞こえたって、「そのとき私にしか聞こえてない」って事は、ね?
場所は、「私の心の中の脳内」だから。「あ、そーだったんだ」
人間から聞こえてくる幻聴は、人間が実際に言っている事が、「脳内」で意味合いが曲がって聞こえてきている。
左脳が壊れてるんだ。
「やめたほうがいい(繰り返し)」お前らは、「代名詞など」を使う事で、「人間の想像力」を働かせようとする。
何を「やめたほうがいい」か、
何が「惜しかった」か、
わざわざ言わない。
「私自らに想像させようとする」んだ。
私も生きていれば、惜しかった事などいくらでも想像できる。
生活していれば、惜しかった事などいくらでもある。
それだけ「思い入れしていた」という事だ。
お前ら幻聴は、
失われても、「惜しまれる存在」ではない。
それだけ「思い入れがない」という事だ。
心の中の事だからね…。
「支えにならない」っていうのは、「思い入れがない」という点も関係する。「もうええ」
自分のものを保っていなさい とあるが、たとえば「自分の誕生日」、
他人に言ったとしても、消えない。変えられない。
自動で保たれている事だ。
出身地も同じだ。「なるほどー」
出身地は産まれた土地。産まれた地の地点座標はいつまでも消えない。変えられない。「そうです」
思い入れしようが、思い入れすまいが、変えられないもの の方が「確か」だろ?
確証もあるし、事実だし。「すごい」
「戸籍の内容」なんて、増えて行くけど、変えられない。
ね?
私には変えられない ので、私に訴えるのはお門違いだ。
「この誕生日を辞めます」って、何度役場や役所に申し出ても、絶対変えてくれない。「そうです」
「この出生地(出身地)を辞めます」って、何度役場や役所に申し出ても、絶対変えてくれない。
私にも役場や役所のひとにも国にも、変える権限がないんだ。「そうです」
「すごい」「終わったね」
洗礼を受けたので、この誕生日と出生地(出身地)を変えたい と思ったとしても、
物質界の身体の、
「この誕生日を辞めます」って、何度役場や役所に申し出ても、絶対変えてくれない。
「この出生地(出身地)を辞めます」って、何度役場や役所に申し出ても、絶対変えてくれない。
「この(物質界の)身体を変えたい」って、どこに言いに行っても、変えられない。
どこにもそんな権限無いんだ。
たとえば、義足なんかは、足に障害があるから、買えるのであって。
それが「親から貰った大事なガタイ」ってやつだ。
ね?
どんなに心の中が豊かだったって、
食べる物が無ければ、心の中を維持する 物質界の身体 を維持できない。
「重要としているもの」
「思い入れしているもの」
を、私は「確かなもの」にしておきたいんだよ。「そうです」
「心の中のもの」は、「確かなもの」ではないもん。いつでも疑える。
心の中は、眠っていたらもっと「確かじゃない」。
普通自分の自由にできないからだ。
聖母マリアとの性交のときは私は自由に動かせたけど。
「岩の上に建てられた教会」より、
自分の戸籍の方が確かだ。自分の物質界の身体の方が確かだ。
「死んだあとの事」は、気にしなくていいもん。
死んだあとは、みんなシェオルに行く って旧約聖書に書いてある。
誰も、何も、感じない場所。
復活にさいして、
聖ドニや聖カタリナとかは、首が無いままか、また同じように死ぬ身体なのか、と言ったら、
「私はすべてのものを新しくする」
って新約聖書に書いてある。「そうです(繰り返し)」
死後については全然気にしてないよ。葬式挙げるかについて考えるのも私じゃないし。
「無っ駄な抵抗(繰り返し)」
「なん回ゆーても生意気ゆーても(繰り返し)なんにも要らない(繰り返し)」
死んだら、
天使(風)になるのだ とは書いてない。
天使(風)のように なるのだ って書いてある。