fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

聖書を大切に思っているひと達へ。

聖書を大切に思っているひと達へ。

(下の方にくつがえす内容も載せてあります。)

新約聖書の、
コリントの信徒への手紙二4:18
パウロの書簡)には、
見えるものは一時的であり
(見えるものは過ぎ去りますが)、
見えないものは永遠につづくのである。

と、書いてある。
では、「聖書」原文や訳文は、
新しかろうが古かろうが、
見えるものですか?
見えないものですか?
見えるものです。

今見えなくても、書かれたときには見えるものです。
盲目のひとに見えてなくても、誰かには見えるものだ。

新共同訳聖書 ルカによる福音書3:22
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。

聖霊は、
新しかろうが古かろうが、
過ぎ去る(一時的な)ものですか?
永遠のものですか?
過ぎ去る(一時的な)ものです。

聖霊がアダム(man。土、赤、人、人間。)であるなら、
人間も過ぎ去る(一時的な)もの。赤だからね、見えてる。
聖なる風が、土なの?
聖なる風も、土も、過ぎ去る(一時的な)もの。

ヨハネの黙示録(啓示)16:13,16:14
かえるのような三つの汚れた霊(悪霊の霊)が出てきた。

汚れた霊(悪霊の霊)は見えています。
汚れた霊、悪霊、霊は過ぎ去る(一時的な)ものですか?
汚れた霊、悪霊、霊は過ぎ去る(一時的な)ものです。

何か勘違いしてるひと達もいるかもですが、
霊は「見えるもの」です。

霊は永遠に存続する(いつまでも続く)ものではなく、過ぎ去る(一時的な)ものです。


ルカによる福音書24:39
わたしの手や足を見なさい。

エスは、
過ぎ去る(一時的な)ものですか?
永遠のものですか?
過ぎ去る(一時的な)ものです。


ローマ信徒への手紙7:6(パウロの書簡)
古い文字にはよらず、新しい霊によって仕えているのです。

上の文を含む(重要)、
約2000年前書かれたとされる、
新約聖書原文は、
古い文字によるものですか?
古い文字によらないものですか?
古い文字によるものです。

新共同訳聖書ローマの信徒への手紙7:6
パウロの書簡)
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。
その結果、
文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

上記の新共同訳聖書の文は、
文字ですか?
文字ではないですか?
文字です。
聖書のどの文も、どの言葉も、”霊”も、わたしたちを従える事はできない。宗教的にはね。
新しい風(霊)がどうとか、もう関係ないのです。

ローマ信徒への手紙7:6や、
マタイによる福音書12:31や32や、
マルコによる福音書3:29や、
ルカによる福音書12:10
は、
見える文ですか?
見えない文ですか?
見える文です。

エゼキエル書10:12
ケルビムとオファニームの姿が書かれている。

ヨハネの黙示録(啓示)4:2~4:3に書かれている、
また、新しいエルサレムの中に、父なる神とこひつじがいるのを、黙示録(啓示)書記者ヨハネは見ている。

玉座にいる神は、
見えるものですか?
見えないものですか?
見えるものです。
つまり過ぎ去るもの(一時的なもの)です。

赤い竜、赤い獣は、見えるから「赤い」。
黙示録(啓示)書記者には「戦争」も「飢饉」も「死」も「黄泉」も「火の池」も「新しいエルサレム」も見えている。見えるもの。


三位一体すべてと聖書と新しい霊が、過ぎ去る(一時的な)ものである事が聖書によって証明されました。

キリスト教徒は三位一体に仕えておらず、
見えない永遠の神に仕えている。
音声データや風は、視覚化、可視化できる。


私は、幻聴も、ブログなどで文や文字におこして視覚化してきた。


そういえば、
古新聞
って、古いのか新しいのか…?
古いからリサイクル回収やゴミとして棄てるんだよね?
古いから。

古い。過ぎ去る。
過ぎ去るもの→過去のもの
幻聴「凄いな」


福音て文字も見えるものだし、
福音の内容も見えるものだ。
これはいくら音や声で伝道や口伝しようと、
聖書全文、
「すでに文字化されているもの」だから。


マルコによる福音書9章48節
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

マタイによる福音書5章13節
塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

これらも、見える、文字だ。

まだ聖書がこわいですか?



聖書が見えるものだという事に、
それはパウロの書簡だから、パウロの意見だという事を意識させたい訪問者がいたようだ。

しかし、キリストの言葉を含む「福音書」自体も「福音書記者が書いたもの」。
幻聴「なーるほどーーなーるほどーー」
ふりだしに戻るでしょ?

盲目になったパウロが、キリストに導かれて目から鱗のようなものがとれ、「やっと見る事ができた」パウロが、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠である」と言っている。
幻聴「なるほど」

私は「キリストのくびきは軽い」という事を聖書で説明しているのです。

聖書を信じるなら
「聖書にはこうかいてありますよ」
聖書を信じないなら聖書関係ないですよね。

キリスト教徒が信じてるのは、
キリストですか?
神ですか?
聖霊ですか?
聖書ですか?
見えない永遠の火である神ですか?
地獄で魂を滅ぼす権限のあるかたですか?


これまでの文をくつがえす内容

まあコリントの信徒への手紙は、
「コリントの信徒へ」の手紙だから、
日本人も関係無いけどね。
ヨハネの黙示録(啓示)トカ、書かれてる7つの教会の信徒しか関係無いし、
テオピロ(テオフィロ)閣下への手紙トカ、関係無いよね。
ルカによる福音書と、使徒言行録。)

とすると、
有効なのは、
マタイによる福音書、マルコによる福音書ヨハネによる福音書
ペテロの手紙2、ヨハネの手紙1、ユダの手紙?
の6つだが、
手紙はもともと手紙を宛てたひとへの手紙なので、

マタイ、マルコ、ヨハネによる福音書の他は有効でない事になる。

霊に従う新しい生き方 という言葉も、ローマ信徒への言葉。
この「わたしたち」の定義が、信者達 かもだが、ローマの信徒への手紙が書かれた当時、私はその「わたしたち」には含まれていない。私はまだ産まれてもいない。
当時新しかった霊に従う生き方も、約2000年前の古い古い生き方だ。
新約聖書は古いんですよ。

他の訳では、「新しい霊によって仕えている」 と訳されています。
新しい霊(風)に仕えているのではなく、
新しい霊(風)によって仕えている。
と訳されているのです。
もちろん風なので言葉ではありません。
風そのものが言葉や幻聴なのではありません。

キリストによる福音書ではなく、
ヨハネによる福音書には、言は神であった
と書いてある。
「~の神」の事は、名前として「~」と言葉で呼ぶからだ。
じゃあ例えば、
「~さんの息子さんはニートだって。」
では~さんの息子さんはニートの神ですか?
そうではない。

例えばうどん屋で、
「私はきつね。」
じゃあその私さんは狐ですか?
そうではない。

例えば枕草子で、
「春は曙」
じゃあ春=曙ですか?
そうではない。


また言いましょうか?
「キリストによる福音書」がありますか?
そういうのが出版やネット上とかに出たとしても関係無くて、
約2000年前にキリスト御自身が書いた福音書があるなら、キリスト教徒はそれに従うかも。
でも正典に無いでしょ?今迄ずっと。

キリスト教徒は誰を信じてるの?
風を信じてるの?
厠に落ちる聖体を信じてるの?
福音書記者を信じてるの?

風を信じてるなら、風教徒でしょ。
我々に風に従えと言うなら、何故キリストは風を叱りつけて、風はそれに従った?
受肉までしてる、人の子であるキリストの方が風よりヒエラルキーが高いからでしょ。
二君に仕えろとでも?

パウロからの「ローマの信徒への」手紙
の表現では、
霊に従おうとしてる訳ではなく、
自分の意思関係無く、
霊に従うようになってしまっている
と考えた方がいいように思う。
聖霊とも悪霊とも書いてません。

言い逆らうとゆるしてくれないという、
聖霊がアダムなら、アダムは何歳ですか?
アダムは生きていますか?死んでいますか?
なら神々は生きていますか?死んでいますか?
幻聴「おあ なるほど…(感心するように)」



「文字」と訳されていますが、その単語は
「手紙」とも訳せます。

新共同訳聖書では、
霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

と訳されています。
聖霊とも悪霊とも書いていません。
霊(風)です。

では向かい風のとき信者はどうすればいいのか?
マタイ伝8:26
キリスト教徒は誰に仕える宗教なんでしょうね?
(シヴァやインドラや神風や嵐も暴風雨)
信者が正しいのか?福音書記者が正しいのか?キリストが正しいのか?神が正しいのか?霊が正しいのか?

その質問ではなかったと思いますが、
カソリックの神父さんは、私の様々な質問に、こう答えました。
神父さん「あなたがキリストに会ったとき、聞いてみて下さい。」

仏教のお経や、キリスト教の聖書は、
何故仏陀自身や、キリスト自身が書き残した書が見つかってないのでしょうね?
みんな疑問に思わないで信じてるけど。
原文がその時代の物なら、可能だよね?
教祖自身が書き残す事が。

幻聴は幻聴自身が何か書き残しましたか?


雇い主と救世主は異なるでしょ。
私は修士(マスター)課程修了しましたが、
私はあなたがたのマスターですか?