fatimariaの日記

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聖霊と悪霊が永遠ではない理由。(下の方に記)

2017/09/22 04:27
新ブログの方の記事をそのまま抜粋します。
以前からある新ブログは、
http://azharblog.blog.fc2.com/
です。
そちらの方が近況をよく載せてます。


眠っていたときの夢の中で、
ラスボスを倒したエンディングのあと、
聴覚なのか視覚なのか脳波なのか、何かによって、
触覚に作用するファイルが公開され、
新しい分野が示された。


しかし、この分野がネットに流通すると、
ペイン
とも言える「痛み」のファイルというウイルスが流布する事になる。
触覚に致死量を越える痛みが加えられると、犯罪に使えるのだ。

携帯電話やスマホやパソコンで人類を絶滅に近付ける事も可能かもだ。

所かまわず強制射精や強制失禁させられるという、しもの危機も可能かもだ。


今日は眠っているときの夢の中で、
小さい、私のような妖精(私自身は小さくなく、かわいくもないが。)が、
「今の自分を好きになるには、過去の自分を受け入れ、好きになる。また、未来の自分を想像して好きになる。
未来の自分を好きになるには、今の自分を好きになる。
過去の自分を好きになるには、自然の織り成した法則を仕方なかったと受け入れ、好きになる。」
みたいな事を言っていた。

頑張ってきた、あるいは頑張らなかったけど仕方なかった(環境とかの自然の法則)に合わせてきた「自分もそんなに悪くないな」と、気付いたとき、
自分も好きになれるし、環境も赦せる(ゆるせる)ようになってくる。

初代教皇ペテロも、師匠のキリストが逮捕されるとき、剣で応戦したが、逮捕後、結局死ぬのがこわくてキリストの事を3回「知らない」と言ってしまう。初代教皇

他の弟子達も、キリストが逮捕されるとき、こわくなってトンズラぶっこく。そこには福音書記者達も含まれる。

そのキリスト自体も、逮捕される前、ゲッセマネの園で、ずっとある死ぬのがこわいという気持ちに負けない為に祈り続けた。キリストは
出来れば杯を取り除いて下さい
と祈っていた
つまり、「迫害され、処刑されて屠られる(聖杯を受け入れる)」という自分の運命を受け入れられず、「死にたくない」と思っていた。
でも、神に
心のままになさってください。
と祈っていた。
死にたくないけど神に任せたいという葛藤があったから熱心に祈っていたのだ。

それがキリスト教徒の師匠(教祖)だ。
キリスト教徒は師匠を超える必要は無いのだ。
師匠を超えなくてもそれでよいと、キリストがお決めになったのだ。
死ぬのがこわくてそれでいいのだ。

ただただ神に任せて死んでもいいと思っていたなら、ただ静かに時を待っていたか、他の事をしていたはずだ。

死ぬのがこわかったキリストも、使徒達も、結局その後、
殉教(処刑される。つまり聖杯)を受け入れる。
危難の席のガラハッドも同様だろう。
処刑されなかったのは福音書記者ヨハネ(蟹座)だと言われている。
それは聖母マリアを養うという任務があったからかもしれない。
しかし聖母マリアが天にのぼるときには、まだトマは殉教していなかったらしいので、
双子のようにキリストに似ていたトマがその後殉教しているのに、もう聖母のいない福音書記者ヨハネが殉教していない理由はなんだろう?
キリスト教星図では、聖杯は、福音書記者ヨハネが持っている。蟹座の積屍気が聖杯にあたると思われる。

聖杯とは「迫害され、処刑される事で殉教する事」だからだ。
聖杯はもう福音書記者ヨハネが持っているのだから、人間達が手にする必要は無い。
迫害され、処刑される事の無効化。
ちなみに蟹座に太陽があるの日の産まれのひとは蟹座そのものではなく、守護星の月(の男性形であるムーン。神や女神ではなく、人間の男性。)とされる。

聖杯を手に入れるものはなんでも願いが叶うというのは、聖書をよく読んで無い者のデマだ。
聖杯を手に入れた者は「迫害され、死刑される」。
それが聖杯の能力。

普通にワインを飲むときや、
聖体拝領や聖餐式で、
神の怒りの葡萄酒(聖杯)を飲まされたら、迫害がはじまる。
キリスト教徒になろうと思っている者達は、そのしっちゃかめっちゃかな迫害がはじまる事に本当には気付いてない。そんなはずはない とか思っている。
屠られる純粋な子羊達。
ラム肉食べた事あるでしょ?無いかな?
その羊、どのようにして肉になったか想像してごらん。

結婚する男女は一体(一つの肉体。一つの肉。one flesh body。サルカミアン。)となる。
fleshは人間などの肉の事で、食用の肉には多分あまり使われない語だと思う。しかし羊はマトンやラム肉とよぶ。
キリスト教徒の信仰であるニケ(勝利)はこのone flesh bodyのoneにあたる1(mia。1の女性形。)の事。
セックスすれば「勝利になる」のだ。
幻聴「なめとんか!」
セックスすれば勝利を得るというより、
セックスすれば「勝利(キリスト教徒の信仰)の肉」になるのだ。
悪魔達も生物学的に人間なら同様だ。

セックスすれば神になるのではなくて、女神の肉になるのだ。
骨でもなく、魂でもなく、霊でもなく、肉。

「戦乙女ヴァルキリー」ってアダルトアニメ知ってる?真章の方じゃなくて。
そのアニメでは結局ヴァルキリーは金星女神フレイアやスクルドとやっちゃうけどね。
スポーツや勝負の世界で生きているひと達は、勝利したら何を得るか覚えておいたらいい。メダルに何が刻まれているか。

しかし、

コリントの信徒への手紙2 5:7
目に見えるものによらず、信仰(つまりニケ)によって歩んでいるからです。

つまりニケは目に見えるものではない永遠のものという事です。

ちなみにヘブライ語
バシャール(bashar)は、(骨や皮に対しての)肉、食肉、(魂や精神に対しての)肉体の男性形。
アキラー(またはアヒラー)(akylah)は、食べること、食事の女性形。
オケル(またはオヘル)(okl)は、食物、食糧、食べること、食事の男性形。
新約聖書ヘブライ語訳では、
ヨハネ伝6:51のキリストが、
私の肉(サルクス)である
と言う肉にはバシャール(肉)、
マタイ伝19:5の
一体(サルカ ミアン)である
という一体にもバシャール(肉体)、
の語が使われている。
まあ原文もヘブライ語訳も「肉」は同じ単語だけどね。
一体(女性形。)となったら人(男性形。つまりこの場合他人)は離してはならないが、
「一体」自体は宗教的には女性形なので人(男性形)ではないので、離婚も男根抜くのもオッケーなのだ。
幻聴「なるほど」
口から入るものはかわや(の男性形)に落ちるだけである。

アダムが妻をはじめて見たときの、
私の肉の肉、骨の骨
の「肉」にも、バシャールが使われている。
しかし妻は骨であった。(創世記著者のツッコミ待ちかな?そこに夫婦間の違和感が?)


何故キリスト教会にたずね行く者達が迷える子羊と言われるか、本当に、気付いてない?
まだ、「そんなはずはない!」と思ってるの?

しかし口から入るものはかわやに落ちる「だけ」。
聖体拝領や聖餐式の葡萄による液体(キリストの血)や、ワインや葡萄などのジュースを飲むときの葡萄による液体は、かわやに落ちる「だけ」のもの。
迫害の引き金ではない。
神の怒りの葡萄酒や迫害の無効化。


キリスト教の手本は、迫害され、殺される事。

でもキリストは使徒や弟子達にも最後の晩餐の前には天国についてきてもらいたくなかった(弟子達を殺したくなかった)。
なのでキリストは、
師匠(であるキリスト)を超える必要は無い。
と言ったのだ。
幻聴「なめとう」

この なめとう は、
キリストは、師匠(である自分)
と書いたときに発せられたもの。
多分幻聴は師匠を「私」自身 と書いたと思ってなめとうを言ったと思われる。
私は、「キリストは、弟子達にとって師匠(であるキリスト自身)」という意味ではじめに
キリストは、師匠(である自分)
と書いたのだが。
私の事を言った訳ではないのだ。


師匠であるキリストを超える必要は無い(迫害されたり処刑されたりする必要は無い)のだ。

キリストは私のように完璧なものになりなさいとは言っていた事が書かれている。
死をおそれて葛藤していた事も、
(仮庵の)祭には行かない と言ったのに行って癒やしていた(嘘をついた)事も、
完璧の一部なのだ。
今年のユダヤ教の仮庵の祭りは、10月5日からかな?

聖書(古い文字によるもの)は、
父なる神(不義の世界である見えない火)は、
キリストは、
聖霊は、
永遠ではないけどね。

永遠ではないのが完璧なのか。


でも殉教である聖杯は、福音書記者ヨハネが持っているのだ。我々人間達に与えられるものではない。

聖体拝領や聖餐式などを受けなかったひと達
(例として不慮の事故や死産などで亡くなった子供とか、新約聖書の最初の死者達である幼児殉教者たちなど。)
は、永遠の命を得られないだろうか?
いや、
神は貧しき者にも富んでいる者にも様々な地上の動植物にも太陽を昇らせるのだ。


コリントの信徒への手紙2 4:18
新共同訳聖書
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

新改訳聖書
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

聖霊が鳩のように目に見えた。
復活する前のキリストが、また、復活したキリストが弟子達に見えた。
ヨハネの黙示録(啓示)で、
神の御使い達が見えた。
汚れた霊、つまり悪霊がかえるのように見えた。
サタンが赤い竜に見えた。
サタンの使いも投げ落とされるのが見えた。
死も、黄泉も、偽預言者も、獣も、バビロンも見えた。
火の池、火と硫黄の燃える池も見えた。
新しいエルサレムも、新しいエルサレムの中の仔羊と父なる神も見えた。

見えるものは過ぎ去る(一時的な)ものであって、永遠に存続する(いつまでも続く)ものではない。
霊も永遠ではない。

何か勘違いしてるひと達もいるかもだけど、
霊は「見えるもの」です。

これを読んでいる私達がまだ生まれてなかった時代の、「わたしたち」の、
「霊に従う新しい生き方」
というのが、すでに2000年くらい前の古い生き方なのだ。
これを読んでいる私達は、霊に従う生き方をしなくてもいいし、霊に従わなくていいのだ。

はとのように見える「聖霊」に言い逆らう事で、聖霊が永遠にゆるしてくれなくても、聖霊自体が永遠ではない。

そもそも現実に、はとやはとのように見えるものは、ポッポーとか、クルッポーとか、ポッポーグーグーポッポーグーグーとかなど鳩語しか言わないので、
我々人間達は言い逆らう事が出来ない。

番組などで、はとのようなキャラクターが喋っても、
実際喋っているのは、はとのようなものではない。
スピーカーなど、振動を伝える物が喋っている音声を出しているだけだ。
そういうキャラクターを自分では喋る事の出来ない偶像とも言える。
はとの形をしたスピーカーがあったとしよう。
それがあなたの聖霊ですか?
少なくとも私の聖霊ではない。

聖書には「聖霊の言葉」は、正典には一言も載っていない。
聖霊は喋らないのだ。
これはつまり、我々には「聖霊に言い逆らう事」は永遠に出来ないという事だ。

キリストは
あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになる。
と聖書には書かれている。
バプテスマ(洗礼)はエン(1の中性形)なので、
聖霊と火やヨハネによるバプテスマ(洗礼)はエン(1の中性形)なのだ。
火は「不正(不義)の世界(コスモス)」であるキリスト教の神の事なので、
聖霊と火やヨハネによる、「洗礼」はエン(1の中性形)であって、洗礼は1回きりとかいう意味ではない。
キリストは、
わたしと父とはエンである
と言っている事から、
黙示録(啓示)で見えている火である不義の世界である父なる神と、聖書中見えているキリストは、
「洗礼(バプテスマ)」
であるという事が言える。
キリスト教徒は普通、水による「洗礼」を受けるので、
水の「洗礼を受ける」とは、
キリスト教徒は、
水によって 「見えている火である不義の世界である父なる神と、見えているキリスト(中性)」を受けるという事になる。

聖霊と火との洗礼を授けると書いてあるので、
はとのように見える聖霊(人。アダム)の「洗礼(1の中性形)(父なる神である不義の世界である火とキリスト)」もまた受けるという事になる。

聖霊は、はとのように見えるものなので、
聖霊は、洗礼を授ける洗礼者の事ではない。
洗礼者に、「はとのような姿になれますか?」と聞いてみればいい。
なれると言い張るなら「今すぐなって見せて下さい。」と言えばいい。
なれると言い張る時点で「聖霊を汚すもの」であり、
コスプレしてきたらそいつは「聖霊を汚すもの」だ。

そもそも水による洗礼を授ける者は、サロメ(平和)の命令で首を斬られる定めにある者だ。
その斬首刑執行人の首狩りナアマンは水瓶座だと星座の本には書かれている。
水瓶座は乳飲み児(希望)。