fatimariaの日記

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アナテマ・マラナ・タと新約聖書のアガペー以外の愛について。

アナテマ・マラナ・タ

というのは、

新約聖書のコリント人への第一の手紙16章22節

に出てくるパウロによる呪いの言葉である。


アナテマが のろい、誓い

(主語中性形単数名詞)の意味で、


マラナが呼男性形単数名詞

タ が命令形能動詞

マラナ・タ で主よ来てください


処女神アナテによる死の呪いの言葉で、

新約聖書の書簡では

花婿よ来たりませ

という意味にすり替えられているが、

本来は

屠られる迷える小羊としての花婿に死が差し迫っている事を言う言葉で、

死ぬ定めの者に死を宣言する言葉なのだ。


アナトは血生臭い戦争と愛の処女神。


パウロは厳格なイスラエル人であったので、

当然イスラエルの神はエル(男神の単数形)・カナー(嫉妬の女性形)のYHWH・エロヒーム(神々の存在)。

エルの娘がアナト(アナテ)なので、パウロにとってアナテの死の呪いの言葉は、イスラエルの神による呪いの言葉に近い意識だったのだろう。


え?新約聖書に女神の名前が載ってるの?って

新約聖書一神教だと思っている普通のひと達はいるだろう。

新約聖書は原文がギリシア語で書かれている為、

文の単語単語がギリシアの神々や女神達の名前で書かれている様な書物なのだ。

しかしエロスという言葉は注意深く避けられている。活用された言葉が一回だったか、数回だったかに出てくるにとどまる。

以前ブログに載せたはずなのに、

検索に引っかからない様にされてある。

しかし、

新約聖書中に出て来る

ερωταωエロータオーは、

質問する、疑問に思う、問う、尋ねる、求める、願う

という意味で、

ερωςエロスとは異なるという説が有力で、

聖書には注意深くエロスという語を入れてないと言われている。

この語がエロス語源だととんでもない意味になる。



ヘルメスという名前は信徒の名前(人の名前)として出て来るが、

そう言う事ではなく、

単語そのものが神や女神の名前なので、


例えば、

争いの女神エリスは

ローマの信徒への手紙1:29、13:13

13:13には横にゼーロス(妬み)というニケの兄の名前が載っている。

1コリント1:11にはエリデス、

テモテ3:9にはエレイス

というエリスの複数形が載っており、

フィリピ1:15にはエリン、

1コリント3:3や2コリント12:20やガラテヤ5:20や1テモテ6:4にはエリスと単数形ではっきり載っている。


新約聖書原文に載っている愛は以下のとおりで、


フィラデルフィアが兄弟愛の女性形単数で、

フィラデルフォスが兄弟愛の男性形だ。1ペテロ3:8に複数形でしか出て来ない。


夫を愛する はフィルアンドロス


人類愛(親切、博愛) がフィランス(thトかも)ロピア


慈愛 がキレーストテースxrehstotehs


金銭愛 がフィラログリア


自分愛(利己的な) はフィラウトス


好きである、愛する、好む はフィレオ

父母や娘息子への愛もフィレオが使われている


享楽的な、快楽を愛する はフィレードノス


友情、親愛 はフィリア


愛する、親愛な、親しい、友 はフィロス


神を愛する はフィロテオス


子供を愛する はフィロテクノス


敬愛を示す、拝む はエウセベオ


善を愛する フィラガトス


の様に、


新約聖書に載っている「愛」は、ほとんどが、

アガペー

フィル

カリス(xaris)


である。


カリスは、恵み、優しさ、好意

という意味に訳されていて、

日本語聖書原文では多く「愛した」とかいう語も、この語が使われている。

当然この「カリス」というのは美と優雅の女神達(複数形はカリテス)の事で、チャリティーの語源だ。英語ではグレイシズと呼んでいる。

ゼウスとエウリュノメの娘達で、昔は3名より多かった。

美の女神カリス達の司るものは、

饗宴と舞踊、あらゆる社交的な歓楽や、気品の高い芸術。

3名は、

エウプロシュネー(「歓喜、喜び」という意味。いつも楽しげな表情)

アグライアー(「輝く女」という意味。末妹。別名パシテア)ヘーパイストスの後妻説あり。

タレイア(「花の盛り」という意味。仮面劇の喜劇のミューズと同名だが別の女神。)


ギリシア神話ではそういう名前だ。


キリスト教新約聖書原文には、多くの神々と女神達の名前が載っているが、


神々や女神達の名前のほとんどが固有名詞ではなく、単語の意味の内容として使われている。

ゼウスやヘルメスやアルテミスは神の名前としての固有名詞として出て来る。


キリスト教側の美点についてはだいたい女性的な優しさの女神達の名前の単語が使われており(巧妙な心理的権威の示し方)、

マイナスイメージの単語をとことん

「避けなさい。避ける様努めなさい。」

という様に書かれている。

はっきりとマイナスイメージのひと達や事柄を避ける姿勢、距離を取る姿勢なのだ。

それを見た普通のひとは、

「綺麗なものだけを見、綺麗な事だけを行うのがキリスト教なんだな」

と思うと思う。

また、それを見た心の荒んでいるひとは、

「綺麗事の無理難題だけ書いてあって、現実の労苦に対する対処の具体的な知恵がほとんど書かれていない!」

と思うと思う。

私も、身体的には制御出来るけど、精神的には全く制御出来ない、「性欲、情欲をどうすれば新約聖書に書いてある位に清廉に生きられるのだ?具体的な方法は!?」と随分悩んだものだ。かなり理性を尽くしたよ。尽くしたから尽きたのだ。

結局、

「性欲は毎日日が昇る様な自然現象で、無理に止めたり我慢した方が情欲や性欲が高まるんだな。」

と、気付いた。聖書にはそういう「止めろ」という事は書いてあっても、逆に止めた事でダムに溜まった情欲を処理する方法は、「結婚しなさい」としか書いてない。

結婚出来たらしてるっての。

私は嫉妬深いから結婚相手のヴァージンを奪わないと、後々も悶々として結局殺すだろう事を考えると、易々と結婚出来ないのだ。