それは一般的に好ましい健康的な事なのだろう。それが可能なひとはそれでいいと思う。
私は家族を心の中で棄てた。私は友達を棄てた。
連絡を取り合うひともいない。
メールのやりとりも店以外とは無い(つまり個人的なメールは無い。)。
携帯も持っていない。
私は普通の一般人の常識人だ。と私は言うが、私は客観的には普通じゃない。普通の生活レベルが可能なひとが羨ましい。
考え方はかなりノーマルで健全な部分が多い。でも実際している事はひきこもりだ。
でも一歩も外に出ないわけではなく、医院も自分で行くし、買い物も自分で行ったりする。親とも出かける。
私が私自身から社会との接点を持とうとするのを、見守っているひと達がいる事は確かだ。
しかし私は他に興味を持たないだけでなく、裏切られる事を考えて止めている。
心の傷というのは、やっぱり身体的な傷よりも回復が遅いだけでなく、後遺症が大きい。時間がかかるという事だ。
だからこそディアボロスは一番痛い方法を使い、去勢する。そのひとの人生の大部分の時間に影響を与える。
ひとは去勢されて角が取れて円くなって「落ち着いた大人」になって行く。
はじめから円いものは去勢すると角が出来てまわりに痛い部分が当たるようになるのだ。
私が怒鳴っている のはその部分の角だ。もっと角を丁寧に「磨かないと」ね。荒削りは最初だけでいいのだ。
木の剪定で切ってしまった枝は枝が伸びるまで返らない。剪定者の実力は作品を見たまんま、バレるのだ。
我々人間という作品もそうだ。
角の取り方でその荒削り手術の実力がわかる。膿を出した後、傷口がきれいに縫合できるほど、上手い という事だ。それが実力。
私のようにいつまでも八方塞がりのようにうじうじしているようなのを、「失敗作」って言うんだ。
どうせすてるんでしょ… か?
家族を大切にするのは何故だ?「定められた土地で長く生きる事ができる」為か?生き方としては上手いけど、大切にする と 波風立たせない とは異なると思う。
キリスト教は家族に関しては「雨降って地かたまる」だ。
とことんディスカッションして、むき出しで理解しあえた、認めあえたところで、家族への尊敬がうまれるのだ。
これは家族みんなが真っ直ぐにディスカッションしなければできない。
まわりからプライドを触って行って、障り(逆鱗)の原因を見つけて行く。
まず相手が、どういう思想で、どういう気持ちで、どうしたくて、そうしているのか理解していないと、相手を大切にはできない。相手の全部を知る必要は無い。自分と相手との事を理解すればいいのだ。
私は一人になりたくて、残酷になって、すべてのひとを自分から切り棄てた。
キリストも、神々も、仏達も、天使達も、悪魔達も、妖怪や想像上の存在も、人間達も、私自身も、世界中の誰も、
私の幻聴を止めてはくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も救ってくれなかった。
だから私はみんな棄てたのだ。一人になったのだ。
今更誰と仲良くしろというのだ。
一番辛いときに助けてくれたのは一部の心の中の幻聴だけじゃないか。そいつらにも裏切られたけどね。
私に友達は居ません。それでいいじゃないか。
本当は私を たすけたのだ という者もいるかもしれない。
でも、傍にそんな者は見当たらなかったし、今も傍に誰も見当たらない。そして幻聴が消えなかった、幻聴達は私を裏切った、のも事実だ。それが実績だ。
でも自分の客観視点は持っていたいものだ。
私には私が理解不可能だから。ひとから見た自分は自分の参考になる。
どんなに自分を棄てても、結局は付き合っていかなければならないのが自分自身。
こうしたらいいのに…。っていうアドバイスも私は拒絶するなら、私が自分でやるしかないんだけどね。
「調子悪く(心脆く)なる」「幻聴が聞こえる」これが無くならない事には、次の段階に進めない。
この原因を解明しないと…。
エビリファイで「調子悪くなる」事が無くなれば、毎日の薬として候補となる。2ヶ月くらいかな…「調子悪くならない」と判断できる期間は。4月17日からだから、6月17日くらいまで調子悪くならないなら、勤務できるかも。
今日は悪夢らしい悪夢は見なかった気がする。強い低気圧のせいもあるのかな?
もし原因が気圧だったとして、気圧計を持っていたって、その環境の気圧そのものを変える事はできないだろう。今の経済力ではそんな大きな結界は無理。だったら、自分の方を気圧に強くできる方法はないだろうか?
花粉症も根本治療の方法がいろいろ出されはじめているらしい。
私の考える根本治療とは、その人間の構造を変える事だ。
たとえば
癌の再発におびえるよりも、癌が発生しても癌が心身に益になってしまう構造に人間を作り変える事。
私の知識では不可能なので、研究者にそういう発想を提案できたらいいのにくらいに思っている。
私の統合失調症も、私に害を与えないで、益になればいいのにね。
私はメリットデメリットで動くわけじゃないけど。
神を、キリストを、神話を、星座を、アニメを、ゲームを、棄ててないじゃん って意見もあるのかも。
それはたとえると、戦時中に生きた戦争体験者達が、戦時中の苦しみなどを世に語る ようなもの。
戦争を知らない子供達には、戦争を知らない子供達の生き方がある。そっちはそれでいい。
でも今まで生きてきた大部分を語らず、勤務に専念するのは、あまりにももったいない気がするのだ。
私という人間が、死にかけてまだ生きている という事を、語らないのは。
隣のじいちゃんは戦時中の話をしてくれる。死体の山、爆撃、戦後昔の南海大地震。
私が聞かないと私は知らなかった事だ。
今の学校の教諭は戦争体験者ではない。「そうです」聞いた話、読んだ話しか、教えられないのだ。
でも体験した事を、どんなに詳しく説明しても、完璧に伝える事はできない。
でも少なくとも私の体験は他のひとよりは私の方が状況を正確に伝えられる。
この文章に私の幻聴を聞いているときの心の不安定感、圧迫的な(裏切りに関する)痛みは伝わるように表現されていない。私が押し隠すからまわりは優勢だと思い、調子に乗ってさらにひどくなる。
このブログは何の役にも立たない。そうかもだ。
でも、世界のいろんなものの価値を考えると、
何の役にも立たないもの なんて、ほとんどだ。
価値があるものにだけ価値があればいい。
だから誰でも一所懸命になれる。
今日はバイクがわざとらしくこの近所で吹かして来たけど、調子悪くはならないみたいだ。
まだ私の芯にひっかかるけど。ひっかからなくなる方法も身につけないといけない。
彼らがこの近くでわざとらしく吹かすのは、私が怒鳴った事があるからだ。この辺りは「吹かすポイント」になっている。私を挑発しているのだ。
私が怒りのままに怒鳴った結果だ。
彼らは望まずに「私にひっかかってしまった」のだ。
私が望まずに彼らにひっかかってしまったからだ。
もちろんある意味「憎みあっているというひっかかり」だ。でも向こうは憎んでいるというよりは面白がっているかもだ。
私が豚箱入ったり極刑になったりして、そこでの騒ぎがおさまっても、私の環境は悪化する。ストレスで豚箱で狂えば私は独房で手足を拘束されて生きる事になるかもだ。
精神病患者だからと罪に定められなかったとしても、「重い精神病患者として強制的に入院させられる」可能性はある。
どちらにしても自由は無い。
私にとって火炎瓶は得策じゃない。怒りのあまり考えてしまったが、反省すべきだ。
彼らに人生を捧げる義理は全く無い。
これは戦争にも言える事だ。敵と戦うという選択で、敵に人生を捧げる必要は無いと思う。
もっと大事な事がある。
でも結局決着がつくまで無くなる事は無い。幻聴と同じだ。
だったら警察に仕事をしてもらおう。私はまだ警察に頼んではいない。警察をさしおいて私が背負い込む必要は無い。依頼心が強いと思うだろうか?
私がやるよりは、警察の方が上手くできる。これは確かだ。
私がやったら結局私が拘束されてしまう。つまり力なく、下手なんだ。
自分でなんでもできる なんて思うのは自惚れだ。
自分の手の負えない事がきっちりわかっているなら、できる者にやってもらっていいと思う。
私はじゅうぶんいろいろ考えた。いろいろ悩んだ。一番いい方法をとるべきだ。
「それが仕事」としてきっちりやってくれるだろう。
やってくれない と 罵るより、こちらがまず信頼するからこそ、信じてもらえるのだろう。
パトロールルートになくて、この近所が何年もずっと迷惑している事を、警察はまだ知らないのかもしれないし。
訴えなければまわりにわかってない事ってのはあるものだ。私は身に染みて経験してきた。
加害者達は痛みに鈍感なものだ。
まわりも、被害者がどれだけ苦しんでるかなんて被害者ほど痛みを感じていないからわからないものだ。
凄く痛いなら「凄く痛い」事を訴えるのは普通だ。ただ我慢してたってまわりはわからない。改善しない。場合によってはどこまで耐えるか試してエスカレートする。
どこにいても、何故かまだ静かな場所を作れないとは…。
何故私にひっかかるのだろう?
何故私はひっかかるのだろう?
緊張する。警察沙汰なんて滅多にない事だもの。そんな点は小心者の凡人だね。
警察は現行犯じゃないと無理なんだろうね…。今後どうなるかな…?