fatimariaの日記

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あずま

以前の記事抜粋。
 
 
東がいくら光(bha。フォース)を発しようと、光(bha。フォース)は西に向かうものだ。
月も、日も、星々も、星座も、西に向かう。
光から見れば、東はいつも夜の始まり。東は光の勢力範囲がいつも終わるところなんだ。
太陽から見ると西は常に太陽の光の勢力範囲がはじまるところ。日の昇る場所。夜の地上から見たら日の出の東の方角。
太陽から見れば、
東の司るのは夕。黄昏。誰彼。
西の司るのは朝。
 
あるサイトでこんな文を見つけた。
日本武尊が亡き妻(乙橘姫)を偲んで「あずま(吾妻)や」と叫んだからそれ以後、東国を「あずま(東)」と呼ぶようになったとある。
私もこう思っていた。「あづまはや」だけどね。文は続く。
これは言語学的には失格である。日本語「あずま」は朝鮮語の「アチム(朝)」と比較されている。
 
「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした」「あずま(東)」は word family (単語家族)を形成する。
 
だって。
 
あさ、あした、あす と同じグループとして、
新しい日の出の方角だから、あずま なんだって。
 
ASA
ASITA
ASU→AZU
ASUM→AZUM
 
あずまは、あづまと違って、「吾妻はや(ああ私の妻よ)」という「妻を失った悲しみの感嘆」ではないらしい。
アチム(朝)ねぇ…。
 
このサイトでは他にも、たそかれ を、かれ が 離れ(遠ざかる)、枯れ だとして、たそ を光 としている。
たそかれ → 光の枯れて行く、光の離れて行く
これは阿弥陀であるアミターバと同じ意味だ。
 
阿弥陀の意味
 
ア(否定)ミタ(認識する)バ(bha、光、星)。
阿弥陀の語源アミターバは、太陽や星々を認識しなくなる方角である「西」をあらわしている。
無量光とは、光の量の無い事を示す。
無量寿とは、寿の量の無い事を示しているのだ。正確に訳すと。
阿弥陀は闇の勢力なのだ。
 
でも あすま さん っているよね。
あずまは、あすまさんよりは意味が「明日」や「朝」より遠いわけだ。
でも「あずま」は、「明日」や「朝」と同じで、「あづま(妻を失った悲しみ)」とは異なるらしい。