fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

こんなコメントが来ました。

こんなコメントが来ました。
 
¡­饢\¤\³\ó変な話を急に言いますが
中身が無い人間を信じますか?
ネットに書いてある情報は人間が編集し作った物です
ですがその情報は残したまま人は死にます
その後残った情報は時間が立って削除されるか残り続けます
死んだ人のネットの情報はほとんど操作出来ません
死んだ情報を見て理解したつもりになって生きてる人ばかりです
そういった物を見続けると人として中身が空っぽになっていきます
イメージで言うとデスクトップのゴミ箱でしょうか?
必要じゃない物ばかり詰められいずれ削除され全てなかった事になる
そういった人間がネット増えてきていると思います
あなたが本当にするべきことは生きた人間周りの人の言葉やコミュニュケーションだと思います

コメントを削除するとその人という人間の意思を削除したのと同じ
2013/1/8(火) 午後 3:07[ ii4*p* ]
¡­饢\¤\³\ó
コメントに返事を書くには長すぎるので次の記事に書きます。よろしいでしょうか?
2013/1/8(火) 午後 6:27[ アズハル ]
 
 
前回の記事の一部が、他のサイト丸写しだから、私に中身が無い と敵対心を燃やしてやってきたようです。
時間がたつ のたつは「経つ」という漢字を使います。脱字も多い気がします。
 
生きている、死んでいる について。
 
聖書にはこう書いてあります。
アブラハム、イツハク、ヤアコブ、ヨセフの神。生きている者の神。
これら4名は死んだひと達です。
その死んだひと達が「生きている」という事で、新約聖書でキリストは死後の世界がある事を説明しています。
旧約聖書では死んだものはみなシェオルに行くと書いてあります。
キリスト教は死んだひとも生きているという思想です。「そうです」
 
輪廻転生はどうでしょう?死んだひとは別の界で「生きている」という思想です。
つまり生きているのです。
死んだひとはこの下らない世界から出たようでいて、輪廻(俊)の中から出られないのです。
生きているものが、生きている死んだ者の言葉を支えにしているという事はありえます。
知識と情報は古くなりますが、下記の教えは何故ひとびとに支持されるのでしょう?
孫子の兵法、孔子孟子仏陀の教え、聖書、クルアーン
何故時代が変わっても読まれるか、必要とするもの、支えとするものがいるからです。
多くのひと達は支えを持っていません。だから他に指針を求めるのです。
それが友達や親や子供であるか、死んで生きている者の本やネットの文であるか、違ってもそれは、
それぞれ(オーダーメイド)だから、それぞれを批判する事はできません。
ひとびとはからっぽをそれで埋めて、支え(柱。神)としているのでしょう。
 
コメントについて。
 
前回のコメント者の言葉は言葉が足りなくて誤解を与える言葉です。
私が指摘した点を訂正するなら残してもいいかもしれませんが、私は消してもいいと思っています。
消されて不快になるようであれば、もっとどっぷり書いてください。
今回のコメント者の言葉はひとを殺す言葉です。支えにはなりません。
ひとを生かす言葉をひとに与えてください。
私が憎いのでしょう?かまいませんよ。私はひとに敵意を向けられるのには慣れてます。私は敵だとは思いません。有情のひとりだと思っています。
憎しみに任せていてはあなたはいつまでも私を乗り越える事ができません。
あなたの正義感や我(が。この場合自分の方が正しいと思っている心)は、必ずしも「どこでも正しい」とは限りません。正しいと思っているものは球体でできています。あなたの方から見て正しい、まわりも確かに正しいと言う。
しかし球の反対側から見てください(視点を変えてみてください)。あなたは間違っている。あなたのまわりも間違っている。
「事実」が正しい。これが決められた「運命」です。
過去の事実、現在の事実、未来の事実 それが「運命」です。
事実は球体の全容を見せているからです。正しい事を裏返せば間違っている事も、事実は教えるからです。
立ち位置が変わればどのようにも とれるのは宇宙に出ないとわからないのかもしれません。
どのようにでもとれるのでは支え(柱。神)にならないから、正しい事はひとつではないという事です。
1(エン)である父なる神は不正なのだから。
 
事実を隠蔽してあるから真実が必要になるのだ。
真実という言葉そのものが、今が欺きの状態だという事を表している。
事実が隠蔽されていないなら、真実など無いのだ。
明かされた事実である真実も事実だ。
 
あなたがデスクトップのゴミ箱と言う私のブログの中に棄てられたコメントを、私が掃除する為に処理したとしても、何が不服なのだろうか?
あなたはデスクトップのゴミ箱の中身を棄てませんか?
 
中身が無い事について。
 
からっぽだから、中身が無いから、いろんな事柄や思い出をまた入れる事ができるのです。
ドラゴンボールZの歌にもあるでしょ?チャラ ヘッチャラ 頭からっぽの方が へのへの河童~ って。
たとえば中国の武術で、「無」の状態とは、いつでも動いて来たものにカウンターをぶち込める状態です。
からっぽだから、余白だけだから、自分が無いから、どんな事にでも対応できるのです。
我が強いものを、日本の社会では青臭いと忌み嫌います。
からっぽなものはいつでも洗脳でき、集団意識(仲間意識)とできるのです。
からっぽの方が日本の気質に合っているのです。
それを埋める為にみんな渇いているのです。渇いているから動けるのです。至福状態では何も行動しません。
リア充のひとは死ぬまで自分の埋められた思い出に浸っていてください。
 
密教で「空」は曼荼羅の中央を占めるところです。
色色空空色空空イェイ!
 
キリストは外の光(神の光)を伝える窓の役目だと言われています。
窓が埋まっていたら光は届きません。光に対してからっぽだから光が届くのです。
 
この私のブログは、少なくはありますが、何故か訪問者数があります。
訪問するひと達は理由は多様でしょうが、訪れるという事は、このブログに何かを必要としている。それを私が補えるかどうかは私にはわかりませんが、それをひとつでも自分で見つける手がかりが書いてあれば、訪問者にとってそれはそれでいいはずです。他はゴミ箱に棄てられていてもそんな事はどうでもいいのです。
誰でも魚の「刺身が欲しい」ときに魚の尻尾や内臓や頭を食べたりしません。でも誰かがさばいて処理するから刺身が置いてあるのです。
欲しい情報だけが欲しい忙しいひとが私のブログに毎日来たりしません。
欲しい情報だけが欲しいひとは、数あるサイトの中から、輝くそれを見つけたらさっさと去って行くでしょう。
刺身だけが欲しいひとはスーパーで毎日置いてあるすでにさばかれて切り身になった刺身を買って帰るものです。
うちのブログはそういうところじゃない。
人生や地球は、全部無駄なものでできているようでいて、無駄なものはひとつもない。決められた運行を行っているだけだ。すべてが歯車なのだ。どれが欠けても決められたようにはならない。だからどれも欠ける事は無いのです。恥ずかしい過去も、忌まわしい過去も、どれも欠ける事は無い。だからひとは過去を昇華するのです。
 
聖書には、聖書中の手紙書記者の信者が手紙中に、律法を詰め込みすぎてがんじがらめになり、人間には守りきれない正しい律法に殺されて、愛する愛の無いからっぽの状態にまでなってしまう事が書いてあります。
信者はすべて失ってから歩き出すのです。その弱弱しい状態での改悛がないものは天国に近くありません。 
初代教皇ペテロも、自分にはこのひとしかいないと思っていたキリストを、死ぬのがこわくて、知らない と3回言ってしまいます。それはペテロが裏切るようキリストが備え置いたつまづきの石です。
自分の大切なものさえ、心の中で捨ててしまう。そういう経験を、キリスト教徒はしてしまう事になり、そのからっぽの絶望的な状態を支えたものが隣人となるというドラマをキリストは用意しているのです。
 
生きた人間とのコミュニケーションについて。
 
訓練所は精神病患者ばっかりです。私はその中で余白(からっぽ)の部分で明るく楽しく付き合います。
私は自分と生きたコミュニケーションをとれるひとかどうかを敏感に気付きます。
逃げ腰だな と 気付いたら、=返事が返ってこないひとだな。という事にも気付きます。考えるだけ時間のロスです。
私はもっとひとを観察してからしゃべるのです。逃げ腰の一言でわかるわけない。
ひとがしゃべればしゃべるほどそのひとの心の輪郭が見えてきます。
見えないものを料理するのは難しいものです。
 
今回のコメント者は勇気を持って私を批判しに来ました。それは評価できるところです。
今までのひと達は逃げ腰で、憎しみを素直にぶつけないひと達だ。
私は素直な芯からの意見を聞きたかったのです。だから評価しています。
 
憎しみの裏には大事なものが隠されている。
ひとが憎しみを見せるとき、そのひとの価値としている大事なものが表出するのです。
私はその大事にしているものの価値を評価する事を狙っている。
 
今回のコメント者は自分の事ではなく、他のコメント者のコメントが削除されるかもしれない事に怒りを発している。それがそのひとの正義感(正しいと思っている事)なのでしょう。
でも私は(逃げ腰という点において)付き合えない相手と接するつもりはありません。かかわるひとは選ぶべきです。
 
 
ね?返事無いでしょ?言い返せないですか?言い返さないですか?
どちらにしろ、刃(やいば)を向けて人に正義を説くとは、片腹痛い。それが人間どものやり方か?
 
今回のコメントは多分男性だと思いますが、
男性は自分の意見を強要してねじ伏せようとする。相手が素直な状態で聞きいれるわけがないですよ。
そこが男性の頭悪いところでね。もっと柔和でへりくだったやり方でないと意のままに操る事はできないですよ?
 
ネットの情報が「必要ないもの」「自分をからっぽにするもの」と思っているなら、どうぞインターネットを利用する事をやめなさい。みんな有益だと思うからこそ利用しているのです。そのみんなを全否定するものよ。
 
何故私がコメントをとりあげてまでネチネチ言うかわかりますか?
私が価値とするものを今回のコメント者は全否定したからです。
サイトのひとは思った事を書き、私は面白いな、新鮮だな、と思ってとりあげ、私は事実を言っているだけだ。
 
このネチネチ言っている日に、訪問者は50。ひょっとしたら過去最多かも。コメント者に同調したのか、私の言い分が見てて面白かったのか、それはわからないけどね。コメントが少ないブログだから。こんな事してたら当たり前だけど。でも友好的なコメントではない事は確かだ。スパムコメントとどう異なるんだよ?
 
ね?私はムカつくと作業が進むのです。