サンスクリット語でアミターバ
ア 否定形
ミタ 認識する、認知する
バ 星の光、光、テカり
アミターバは
「星の光を認識しなくなる」
の意味で、
太陽や月や星々を認識しなくなる「西の方角」
を意味しているだけの名前です。
しかし
阿弥陀に帰依しちゃうとどうなるかと言うと、
「認知しない に帰依する」=「認知症になる」
という意味で、
ちなみにうちのとうさんは、
軸の書道作品に
「〇〇阿弥陀仏」
(言いたくないので伏せ字にしてあります)
と書いたので、
最近認知症の症状が出ています。
ご飯を食べた事を忘れてしまうし、
トイレに行った事を忘れて「トイレに行きたいねん。」って10分おきに言うし、
行く先を私が何度も説明したり。
話は変わるけど、幻聴がまだ淫魔がどうこう言うので、
淫魔はいない、淫魔に出会った事が無い。
悪魔はいない。
と言いたいのだ。
新約聖書のキリストへの試みは、Devil(悪魔)って書いてあるけど、
ディアボロスだったら「中傷する者」なので、
中傷は人間だってするよね。
むしろ人間だから中傷するよね。
「誰かが誰かを中傷する人間の言葉や、中傷してない普通生活の会話が自分を中傷する言葉に聞こえて来て苦しむ」
のがこのディアボロスという現象なのだけどね。
新約聖書でもサタンが入ったという表現がされてるけど、悪魔が入ったとは書いて無い。
またキリストはのちに初代教皇になるペテロに向かって、
「サタンよ引き下がれ。」
と言うシーンがある。
サタンはイスラエルを祝福する為に障害(さまたげ)としてバラムとバラクに現れた天使で、
その為サタンという名前が「さまたげるもの」という意味になった。
ヨブ記でもヨブに酷い仕打ちをするけど、
YHWHが天使のサタンを使いとして命だけはとるなと命令した為にした事で、
サタンは天の御使いなので、
新約聖書の最後の晩餐の席でイスカリオテのユダにサタンが入るシーンがあったが、それはキリストが「今しようとしている事を しなさい。」
と焚き付けた為で、キリストは何をしようとしていたかご存知で、命令したのだから、キリストにも責任がある。
ヨハネによる福音書6:70では、キリストがイスカリオテのユダの事を、悪魔(中傷者)と説明しているシーンがある。
なので悪い事をしようとしている人間を悪魔と呼ぶ事がある。