ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)
以下ほとんど本などからの受け売りの書き写し。私が歴史を学ぶ目的で書いた。
ワラキア在位
第一期 1448年 約2ヶ月
第二期 1456~1462年 約6年
第三期 1476年 約1ヶ月
ほんの6年位の統治だ。ドラキュラの爵位は伯国の伯爵ではなく、公国の公爵だった事はあまり知られてないらしい。
ヴラド・ツェペシュの事はwikiに詳しく載っているので私が書くまでもないが。因みにwikiはまだ読んでません(読めよ)。読んだ。歴史全体の流れを把握できてるひとはいいね。歴史の動きはひとびとの感情の動き。
ハプスブルグ家アンブラス城主チロル大公フェルディナント2世は、悪人と畸形の人物像に関する資料の蒐集をしていた為だという。
1431年11月10日誕生~1476年12月死亡。享年45歳。
魔女狩りの処刑場、拷問場の広場だった景色が見えるシギショアラの生家が今もあると思う。小牌に父の名前「ヴラド・ドラクル(VLAD DRACUL)」とあるらしい。昭和53年出版物より。1992年の本には生家はレストランバーになっていると書かれている。実際行ったわけで無いので知らないが。
ドラキュラの産まれ日の星の位置
天秤座の氐宿に太陽 守護星:金星(シヴァは金星アグニに入っていた。)
蛇使い座で心宿に水星
射手座の斗宿に金星
乙女座の軫宿に月(私とネロの月の位置とだいたい同じ) 宿主宰者:サヴィトリ(弁財天)
月齢25.8 ティティ主宰者:自在天(カーマシャトル。カーマの敵、競争者)
射手座に火星と土星の合(多分これと金星が効いてるね。)
お牛座で觜宿に木星
お羊座の婁宿に天王星
獅子座の星宿に海王星
双子座の井宿に冥王星
好みの女性は火の宮に金星
セックスアピールは火の宮に火星
同じ射手座。
ネロもクロウリーもドラキュラも、射手座に火星。これがカリスマ暴君の星なのかも。
私は山羊座に火星。
産まれ年が同じだとだいたい似たような位置になる。「そうです」
そういう意味で産まれ年の干支(木星周期11.86年)などはある意味が出てくる。
兄(長男)は、「ミルチャ」
ドラキュラ(次男)は、「ヴラド3世串刺し公」
弟(三男)は、「ラドゥ3世美男公」(オスマントルコ帝国の人質のうちにオスマントルコに洗脳懐柔され、ドラキュラを裏切り、13年間1476年にドラキュラがワラキア公に戻るまで、ワラキア公になる。オスマントルコ帝国のハレム中毒だったらしい。)
腹違いの弟(四男)は、ヴラド(ミルチャ)修道僧。後に1年間くらいワラキア公になる。二度目のマリアとの息子はヴラド溺死公。
因みに
→ワラキア公(しかし叙任だけであって、ドラクルの腹違いの兄弟のアレクサンドル・アルデヤ公がワラキアをおさめていたらしい。)。
「叙勲のとき、赤子のドラキュラはドイツに連れて行かれたであろう」という風にある本には書かれている。それだと年と誕生日が合わない。1月か2月の産まれでないとおかしい。
ドラクルは1436年から1437年にかけての冬、アレクサンデル・アルデヤを放逐して実際的にワラキア公になる。
それ以後ワラキアの首都は、トランシルヴァニア国境近くに定められる。
1438年、ドラキュラとその兄ミルチャとともに、オスマントルコ帝国王(スルタン)のムラト2世(統治は1421~1444年、1446年~1451年)の幾度目かのトランシルヴァニア襲撃に加わり、敵としてトランシルヴァニアに現れ、虐殺し、掠奪した。
1444年の夏、スルタンのムラトはドラクル、ドラキュラ、ラドゥ3世を呼び、
忠誠の証としてドラキュラとラドゥを人質として残させた。ドラキュラは人質生活をする(13歳~17歳)。
ラドゥは軟弱で女性的容貌で、スルタンのお気に入りとしてトルコ側のワラキア公公認候補となる。
1446年以降、フニャディはワラキア公をダネスティ家に渡す。ドラキュラの大伯父のひとりダン大公からダネスティ家。
トルコはドラキュラをワラキア公にしようとしていた。
1448年 トルコ軍がコッソヴォにてフニャディ・ヤーノシュを破る。トルコ軍を率いてヴラディスラフを排除し、ドラキュラの第一期2ヶ月のワラキア統治がはじまる。17歳?トルコはアルバニアを除くバルカン半島全土を征服。
1448年 ドラキュラ、フニャディ・ヤーノシュに敗れる。モルダヴィアに脱走して生き残る。
1451年まで居たモルダヴィアの、ボグダン公の息子は、ドラキュラの従兄弟シュテファンだった。
1456年 トルコ、ベオグラード攻略に失敗。ベオグラードでフニャディ・ヤーノシュ、ペストにて死亡。モルダヴィアはトルコに貢献し、ドラキュラ第二期ワラキア統治(主要。1462年まで。)、シビウ城に居を構える。
ドラキュラは1445~1457年統治のハンガリー王ラディスラウス(ラースロー)5世遺児王に忠誠を誓っていた。
1457年 ドラキュラの従兄弟大シュテファンがモルダヴィア公に。
1459年4月2日早朝、ブラジョヴ市内の小高い丘の上でドラキュラによる残虐行為ははじめられたという。
1459~1461年の間。
1461年 ドラキュラはムラト2世の息子メフメット2世(征服帝。統治は1444~6年、1451~1481年)の暗殺を目論むが失敗。
1462年のトルコ軍襲撃の少し前、ドラキュラの最初の妻、塔から投身自殺。
所ジョージ と おすぎ の「トホホ人物伝」で放送されたデータでは、
1462年 ドラキュラは、ヴラド軍2万対オスマントルコ軍15万に夜襲で戦ったが苦戦。
ドラキュラは策として、
メフメット2世のオスマントルコ軍はそれを見て撤退。「串刺し公」の名はここからついた。
1462年 1438年、1460年の虐殺でドラキュラに怨みを持つシビウのザクセン人に書状作戦で騙されたマーチャーシュ王は、ドラキュラが(本にはフネドワラ城に迎えられたとも書いてあるが)
ファガラシュ城にたずねたとき、鎖に繋いでブダペストに送り、ドナウ河の30マイル上流の
ヴィシェグラード城のソロモンの塔に12年間幽閉した。
番組「知ってるつもり」では、多分幽閉中に、ドラキュラが手編み物をしていた事が挙げられている。
その事についてテレビでは、「串で刺すのがいいんだよきっと。」みたいな事を言っていた。
1462年 弟のラドゥ3世美男公がトルコをバックに1475年までワラキア公に。(ドラキュラより統治期間は長い)
ドラキュラをワラキア公に戻す事を条件に、
それによりドラキュラはトランシルヴァニアの民衆の支持を失う。
1474年ドラキュラ釈放。ペストという町(ブダ市とペスト市が統一されてブダペストとなる。)に2、3ヶ月住む。后とシビウで2年余りを過ごす。
1476年11月 1475年までのラドゥ美男公変わって、ドラキュラの第三期ワラキア統治。しかし、
1476年12月 ドラキュラはブカレスト(ブクレシュティ)付近の戦いで味方とはぐれ、トルコ軍だらけのまわりから生き残る為に敵の衣装をまとい、味方のモルダヴィア兵に斬りかかられ、5人位斬り伏せたが、味方の矢で射られて死ぬ(ある本には槍が胸に突き刺さったと書いてある。)。享年45歳。結構若い。
スナゴヴの修道院に首無しで埋葬された。
首はトルコ帝国がコンスタンチノープル(イスタンブール)に持ち帰り、さらしものにした。
私と、二人の暴君ネロとドラキュラの産まれた日の月の位置はだいたい同じのようだ。月齢は異なるけど。
暴君て…。
ドラキュラが串刺しによってトルコ帝国を止めていないと、ロシアの方までイスラム教圏になっていたかもしれない。