fatimariaの日記

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狐の嫁入り。と、ロンギヌスの槍。と、剣を投げ込む。について。

今日は3月15日
聖ロンギヌスの記念日だ。
ロンギヌスは百卒長ガイウス・カシウスの事で、
白内障の兵士だったが、磔刑のキリストを槍で突き刺したときにその血が眼に入り、白内障が治ったという伝説と、
そのキリストを突き刺した槍を持っていれば、世界を支配出来るという伝説が、
ロンギヌスの槍を有名にしている。
ロンギヌスの槍のロンギヌスはひとの名前ではなく、
(柄の)長い槍(長槍)
(ロングスピア)
ぐらいの意味だろうか。(他説あり)
テレビなどでやってたけど、
現在あるロンギヌスの槍を科学的年代測定してみると、金属部分やカバーなどはキリストより後の年代に作られた物らしいので、伝説と槍のうち、槍は作り話である可能性がある。

既に死んでいるキリストを槍で突き刺したシーンの記述は、
ヨハネによる福音書19章34節。

兵卒の名前も出て来ない。
ただ、
「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」
という旧約聖書のゼカリヤ書12章10節の

「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。
彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

という言葉が成就したという意味の内容の為だけに、槍で突き刺すシーンが出て来た。この「わたし」の部分をキリストとする為のキリスト教側の新約聖書の記述。
しかし、剣を投げ込みに来たキリストなら、剣を投げ込まれて剣で刺し貫かれ、剣によって滅ぶというのが、本来の成就方法ではないだろうか?
(しかし下の方もきちんと読んで下さい。意味が違いました。)

新約聖書のシメオンの予言によれば、
「プシュケー(魂。息)」
(「心」と訳されているが、プシュケー。)
こそが、
この、
剣(ロムファイア)で
「刺し貫かれた者」
である、
ゼカリヤ書で、
その日エルサレムに攻めて来るあらゆる国を滅ぼす、わたし と一人称で言っている者」
つまりプシュケーなので、
キリストとは限らない。
キリストの槍のシーンの方がこじつけなのだ。
しかしその「わたし」と訳されている者自身が、「刺し貫かれた者」を「その者」とか「彼」とか、三人称で説明している為、
キリスト教側の訳し方のこじつけではないかとも考えられる。

口語訳では「刺し貫かれたわたし」が「キリスト」にたとえられるような、
「刺し貫かれて仰ぎ見られるわたし」にあたる語が出て来ない。

キリスト自身は、キリスト自身が、
剣を投げ込みに来た
剣をとる者は剣によって滅ぶ
と言っている。
(もっと下の方も読んで下さい。)

本来キリストは、
磔刑の釘(矢座のδ星)と釘にかかる体重の痛みによって死ぬのではなく、
キリスト自身が生前ひとびとに投げ込んで来た、
「物理的でない剣(キリスト教の、教理や掟)」
によって滅ぶはず。


矢座(サジッタ)のα、β、γ、δ星
(つまり矢座そのもの)がロンギヌスの槍の槍先(金属部分)。

無機質である「物」が星座になっているのだ。

矢座の矢は、
ヘラクレスが肝臓をついばまれているプロメテウスを助けるときについばむ鷲に放った矢説もあるけど、

矢座は「エロスの矢」説があり、

ロンギヌスの槍先」=「エロスの矢」「キューピッドの矢」
なのだ。

クピドの矢には、
惚れさせる鋭い黄金の矢と、
冷めさせる鈍い鉛の矢と、
2種類あるが、
どちらであるか、は、テキストには書いてない。

キリスト教星図においてこのロンギヌスの槍先を持っているのは、
どの聖人でもなく、
「名前も載っていない子供の天使」だ。
エロスなら裸だろうけど、
天使はエロスに見えなくもない姿だ。

「エロスが世界を支配する(世界を制する)」

と考えたいひとは考えたらいいかも。
実際どんな動植物も、子供が産まれるにはエロスが必要だ。
そもそも「剣で刺し貫かれる者」である「プシュケー」は、
エロスの妻(あるいは恋人)なのだ。

アニメ「X」みたいに
身体から剣が出て来る
んじゃなくて、
剣で刺し通される(あるいは剣が通過する)。
キリスト教原文において「剣」は女性形単数なのだ。

アニメ「とある魔術の禁書目録」に、
カソリックの1シンボルである
「(初代教皇)ペテロの 剣」
が出て来る。これは、

マタイ26:51
マルコ14:47
ルカ22:49〜

という4福音書全部に書かれているシーンで、
のちに初代教皇になるシモン・ペテロが、
剣を抜いて(つまり鞘付きの剣)、
大祭司の僕であるマルコスの右の耳を切り落とし、
ペテロはキリストに
剣を鞘に納めなさい。剣をとる者は剣によって滅ぶ。
と、たしなめられて、
キリストは切られたマルコスの耳の傷口を癒したというシーン。

この切りつけた剣も、
キリストのたとえる
剣をとる者は剣によって滅ぶ の剣も、
maxaira(マカイラ。女性形単数名詞)
が使われている。
審判の日にひとびとが剣の刃に倒れるの剣もこれ。
キリストの言葉として、
「剣のない者は服(着物。上着。)を売って剣を買いなさい。」
があるけど、
この剣も、マカイラ。
そのすぐあとに出て来る二振りの剣の単語は、
マカイラの複数形「マカイライ」が使われている。
このペテロが切りかかるシーンは、4福音書全部剣はマカイラ(マカイラン)という単語が使われている。

この下記、重要!
1番見逃されているのは、
この
投げ込む(Ballo バッロ)
という単語の意味だ。

ヨハネ18:11  がかなり重要で、

剣を鞘に納めなさい
という訳は、
剣を鞘に投げ込みなさい

マタイ10:34
平和をもたらす為に来たと思うな
という訳は、
平和を投げ込む為に来たと思うな

この「剣を投げ込む」
というのは、
剣を鞘に投げ込む事、
つまり、
剣を納める、剣を収める、
剣を収納する、剣を仕舞う、
事であって、

豚に真珠を投げ込むな
小犬にパンを投げ込むのはよくない


からすると、
キリストが言いたかったのは、

平和を投げ棄てる為に来たと思うな。
しかし剣を(投げ棄てる為に来た)。

という反対の意味になるのだ。

この
平和をもたらす為に来たと思うな
は、十字軍を鼓舞する為に意味が曲げられた訳し方であっただけで、
原文では、キリストはまさしく
「平和(エイレーネー)の神」
に相応しい発言をしている。

平和と剣について、
キリストは好戦的な発言をしていない。

キリストの「服を売って剣を買いなさい」という発言から、
その様に解釈されたかもだけど、
キリストが剣を買わせたのは磔刑の前の逮捕のときの護身用だと思う。
そもそも弟子がたくさんいるのに、
剣がたったの二振り(たった2本)で、
「それでよい。」
とキリストが言っているあたりは、
キリストは(侵攻、侵略など)軍事的行動をする目的で買わせていない。

これは十字軍を遠征させた のちのキリスト教の教理が、
意味を間違えて訳している事をきっちり表している。
軍事目的の教えにすりかえられているのだ。
自分達の平和の神をないがしろにして。


投げ込む(バッロ)については、

キリストに飛び降りてみるように言うシーン、
あなた自身を投げ込む

網を投げ込む

塩も効き目がなくなったら
外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。

原文は、
もしも外に投げ込まれない(納められない)なら、この人々によって踏みつけられる。

右目を投げ捨ててしまいなさい
右目を納めてしまいなさい

明日は炉に投げ込まれる花
明日は炉に納められる花

豚に真珠を投げ込むな
豚に真珠を納めるな

中風で床についている(寝かせたまま)
中風で床に投げ込んでいる

古い革袋に注がない
古い革袋に投げ込まない

平和を投げ込む(投げ棄てる)為に来たと思うな。
平和を投げ込まない(投げ棄てない)。しかし剣(マカイラ)を(投げ棄てる)。

平和を納める為に来たと思うな。
平和を納めない。しかし剣を(納める)。

刈り取った毒麦(悪い者の子ら、つまずきとなるものすべて、不法を行う者ども)を燃え盛る炉の中に
投げ込む(納める)

子供たちのパンを取って小犬になげてやる(投げ込む)のはよろしくない。

釣り針を投げ込みなさい(垂れなさい)。

お前はその金を銀行に預けておくべきだった。
お前はその金を銀行に投げ込んでおくべきだった。

(ナルドの)香油を注ぐ
(ナルドの)香油を投げ込む

(自殺したイスカリオテのユダの)
お金を神殿の金庫に入れる(神殿の収入にする)のはよくない。
お金を神殿の金庫に投げ込むのはよくない。

(キリストの着物を分けるときに)
くじを引き
くじを投げ込み

神の国はある人が地に種を蒔くようなもの
神の国はある人が地に種を投げ込むようなもの

(キリストは治療する患者の)
両耳に指を差し入れ
両耳に指を投げ込み




聖母のプシュケーを刺し通すと予言されているのは、
剣と訳されてはいるが、別の意味の単語である可能性はある。
romphaia(ロムファイア。主語女性形単数名詞)。

このロムファイアは、
ヨハネの黙示録(啓示)で、
口から出た速い両刃の剣
がロムファイア(女性形単数名詞)。

福音書に出て来るロムファイアはルカによる福音書の、
聖母マリアのプシュケーを通過する剣」だけで、
これがヨハネの黙示録に出て来る、
「小羊?の口から突き出た速い両刃の剣」
なのだ。
ヨハネの黙示録に出て来る四名の騎士のうち、
赤馬騎士
がヒュージソード(大剣)を持つ騎士で、
このヒュージソードがロムファイアにあたるはずだが、
マカイラだ。

しかしのちの説明に、
剣と飢饉と死と
の、
剣はロムファイアになっている。

剣(ロムファイア)赤馬騎士 牡牛 ルカ
飢饉       黒馬騎士 水瓶 マタイ
死(死病)    青白馬騎士 蠍 ヨハネ
地上の野獣で人を滅ぼす権威 白馬騎士 獅子 マルコ

となっている。

私はサリエル(牡牛座)ならロムファイアを持つ赤馬騎士にあたる。
聖母マリアのプシュケーを刺し通す者という事になる。

私の前回の彼女、元カノの元 土井ちゃんの誕生日は、
10月18日(聖ルカの記念日)だ。

この赤い馬に乗るお方(私?)が、
口から突き出た速い両刃の剣(ロムファイア)を持つ(保つ)お方、
七つの星を持つお方、
人々が互いに殺し合う様になる為に、地上の平和を奪い取る事が許された者、(マカイラを持つ者)、
という事になる。
私は雪の様に白い白髪、燃える様な赤い瞳じゃないけどね。


小羊?
「誠実」および「真実」と呼ばれ、
その名は、「神の言葉(ロゴス)」
王の中の王
の装備

頭 雪の様に白い髪に多くの王冠
目 燃え盛る炎の様な瞳
口 「諸国の民を打つ(打ち倒す)為にある
速い両刃の剣(ロムファイア)」を持つ
片手 鉄の杖で治める
片手 七つの星を持つ
胸 金の帯
体 血染めの衣
股 白い馬に乗る
脚 真鍮の脚絆
天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとって従う

私は1人。
私は多分、奈良のドリームランドかどこかで、
ポニーかロバには乗った事あるかもだけど、
白い馬に乗った事無いと思う。


速い剣(ロムファイア)がある目的は、
「諸国民を打つ為」。


そのロムファイアで殺された肉を鳥達が飽きる程食べる。
神の大宴会の料理。

私は、
十数年前?に、
太陽の中から鳥達を神の大宴会に集めた役。
私「神の大宴会に集まって来い!」
って言わされた。
私が、言いたいとか言いたくないとか関係無く、言わされた。

私の星宿は軫宿なので、太陽の日輪(八咫鏡)の中の三つ脚の烏(八咫烏)である可能性は否定できない。

ロムファイアは
聖母のプシュケーを通過するだけではないのだ。

すぐ上は小羊?の記述
しかしすぐ下に記述の、

赤馬騎士は、
人々が互いに殺し合う様になるために、平和を奪い取る事が許された、
大剣(マカイラ)を持つ者

きちんと記述を読んでみよう。
人々が互いに殺し合う様になるために
平和を奪い取る事が「許された」
大剣を持つ

「許された(権限がある)」だけであって、
平和を奪い取る
という決定ではない。

しかしまあ…
私は心の中では処女のエイレーネーともしちゃったけど…。
エイレーネーは何故かずっと笑顔で横向いてたけどね。
その向いてる横には誰も居なかった。

何年か前ぐらい最近の話なので、
そんな事考えるの、私が初めてかどうかわからんけど。

ヴィーナスがエイレーネーなら、
ヴィーナスとの情事をイメージした男なんて、
数え切れないかもね。

私は奪い奪われなんて、好きじゃない。
勝ち取るとか言うけど、
勝負も、
受験も試験も、
試す試される事なので、

ロザリオの祈り(オレイション)
マタイ6:13
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

に反する。

新共同訳では試験とかあり過ぎて、カソリック側、プロテスタント側の立場上その訳では困るらしく、

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

と訳されている。
「試み」という表現を使っていない。

原文は、

(ロザリオの祈り)
そして、私に対して試みを導き入れる(持ち込む)な。
けれども、この悪い者から私を救いなさい。

はっきりと「試みを持ち込むな」という表現になっている。
私はイエズス会のひと程には祈ってないが、
祈りはロザリオの祈りが1番多かった。
お陰で食べる物に困った事はあまりない。

しかし、問題は、私が祈っていて気付いているはずなのに、

「わたしたちに試みを持ち込むな」
「わたしたちを悪しき者から救いなさい」

がきちんと守られておらず、

「私のなんとか保っている良心を何度も何度も大きく大きく傷つけた事」

大問題だ。

「良心」は新約聖書原文では、
良い(アガテオス)、

意識、良心
スユネイデーシス(スネイデーシス?)syuneidehsis
スユネイデーセイ(スネイデーセイ?)
女性形単数名詞

良い意識(良心)
スネイデーセイ・アガテー
かな?

良心は、
カルディアやプシュケーではない。

逆に言うと、
自分の宝の箱のある天(足の表面)にある、
カルディアや、

プシュケーは、

良心ではない。

悪い心でも無いだろう。


スユネイデーシスとか書いてると、
シュナイダー
という言葉が文字変換候補に出て来る。

「これは偶像(聖なるもの)に捧げられた肉です」と言われたなら、
自分の良心ではなく、
その言った「他にんの良心の為にそれを食べない」
という使徒による教えがあって、
自分の良心では食べ物についていちいち良心に詮索する事なく
市場に売っているもの(つまりは食品として巷に出てるもの)
は、何でも食べる事が出来るけど、
偶像を大事にしているその他にんが、偶像に捧げた肉を差し上げるという大きなプレゼントをしようとしている事を気遣って、
他にんの良心の為に食べない。
という教えだ。

ただ単に旧約聖書的に、イスラエル偶像崇拝が禁止されているから偶像に捧げられた肉を食べないという事ではなく、

新約聖書的に、新約聖書の舞台地域がトルコやギリシア付近なので、
偶像だらけの社会なのだ。

偶像と訳されたけど、
原文の偶像は、
「聖なるもの」
という意味。


純粋なキリストによる柔和な教えとは異なっていて、
我慢していた怒りが漏れ出てしまっている。

キリストは病気の治療と柔和な教えで説得するのを疲れて諦めた、世を見限った、神に見捨てられた先生なので、
怒っているのは使徒達であって、
弟子達にはゼロテ党員などの過激派もいたので、
使徒の怒りに基づく軍事的なあるいは好戦的な記述は、
キリストが自らを捨ててまで弟子達を守って教えた、
ときには狡くもあっても賢く身を護る方法には即さない。


「プシュケー(魂)」の語が、
サイケ、サイコ、など、
精神科の精神医学用語に使われていて、
英語で「psycho」は、
「精神の。精神病の。」
という意味。

サイコオンコロジー
サイコセラピー
サイコドラマ

などなど。
もとはエロスの妻プシュケーの名前。

私が精神病なのは、このゼカリヤ書の「わたし」にあたるプシュケーが正常ではなかった為だ。
私は今医薬が安定していて、かなり正常に近い。

プル機
だったかな?

プシュケーを蝶々の様にイメージしているひともいるかもだが、
「蝶」で検索しても検索にヒットしない。

プシュケーが蝶々や妖精の様な羽根の生えたイメージは、
西洋絵画の表現としてはっきり羽根が描かれている為だろう。
ギリシア神話の記述に蝶の表現があるかどうかは知らない。


ちなみにアニメ「エヴァンゲリオン」のアラエル戦に出て来るロンギヌスの槍のデザインは、2つの蛇が絡まる、
カドゥケウス倶利伽羅龍やエデンの園の中央にある木に巻き付く蛇やDNA、染色体をイメージしてデザインされているから
二又の槍のデザインになっているようだが、
(ベンジャミンの木みたいだけど)

実際にあるロンギヌスの槍はそういうデザインではないし、人間の持てるサイズの槍だ。
当たり前の話だけど。


3月15日、
今日の昼前出勤中、狐の嫁入り現象が起こっていた。
勤務が終わる頃も、狐の嫁入り現象が起こっていた。

狐の嫁入り現象とは、
晴れているのに雨が降っている状態の事で、
晴れている部分にしかその現象は見えない。

「私がいたトコ」が晴れていて雨が降っていた
という事は、
私に関係がある事なのかも。

帰って夕方お風呂に入っていると春らしく風が強い。

狐の嫁入りを前面に出したアニメは、
彼女がコンコンの狐という意味の作品名なのだろう。
アニメが始まったらいきなり狐の嫁入り現象からはじまる。


アプリゲーム「キングスレイド」で、
狐キャラは、
尻尾1つ レクィナ
白毛九尾 ヴィスカ
の2名。

商売根性の吹き矢の毒商人レクィナは
使っていないが、

蜘蛛女または蟹女
(蜘蛛か蟹の脚が九尾の尻尾になる。私は毎回九尾で使っている。)
のヴィスカは
毎週月曜日か火曜日くらいに闘技場で3回、使っている。
闘技場は戦闘前のキャラ選択で封じられるとそのキャラを使えないときもあるので必ず3回全部使っている訳ではない。

どの戦闘もだいたいアイシャを使っている。
アイシャが1番死んだ回数が多いかと思う。