先日の7月22日の木曜日に書道の春藤(しゅんとう)真紀さんと次長が来たのだけど、
次長が入ったあと、
私と次長がとうさんのお稽古場にいる間、
私が突然玄関に出ると、
玄関のドアが全開だった。
私「!!?」
私が不審に思うと、
次長が「私が開けてあったんだと思います。」
次長は多分閉めたと思うのに、次長がそんな事言うのが不審に思われた。
うちの家の母の着物は以前盗まれて無くなっているからだ。
防犯カメラを確認しようとした瞬間、
春藤さんがやって来た。
春藤さんは
とうさんに一周忌の御香料と、
私は「朝マックっていいの無いんですよね。」
春藤さん「要らんかったら棄ててくれていいよ。」
私が「勿体ないの精神」で、
品物を何も棄てられない事に気付いていて、言うのだろうか?
お中元など、どれほど
「値段高いのに要らない物の受け取りを強要された」
かわかってないひとは多い。
春藤さんは
色紙300枚を3000円で買ってくれた。
色紙は私が絵を描くつもりでいたが、
春藤さんは以前私が色紙をどうしようか困っていた頃の事を気にして考えて、生徒か児童達用にと安くなら処分出来ると持ちかけたのだから、
それは別にいいんだけど、
そのときの春藤さんの台詞が
春藤さん「盗っと猛々しいんやけど!」
とか、
片付け中何度も突然の嘲笑いを繰り返しながらこの家にある価値のある品物を如何に無くすかをベラベラ喋っていた。
それは私の精神状態をかなり不安定にさせた。
「この家の物はどれも価値がない」
という言葉は、様々なひとが洗脳的に繰り返し繰り返し繰り返し言っていた事だった。
私はとうさんやかあさんの遺品などは、むしろ高い価値を見出して大事にしてくれるひとに渡したい。
自分の事を盗っと呼ばわりする様なひとに出入りしてもらいたくない。
私は、
もし見えすいた謝りもしない私への犯罪であっても、
何も言わないで我慢しているだけのタイプなので、
誰かに護ってもらわないと段々我慢が出来なくなって来る。
しかし私自身が何かする訳ではなく、
眼には眼を。歯には歯を。
から判断すると、
「盗んだひとは同じ様に盗まれる」
「心無い事をすれば、心無い事をされる」
という形になる。
眼には眼を。歯には歯を。
それが仏教で言う「業(ごう)」のシステムだからだ。
釈迦の十大弟子のマウドリガヤーヤナだったかの前世の記憶とかで業の事が説明されている。
ポケモン業。
私がこんな目にあうのは、
私か、私の前世か、私の先祖の、
業による事柄だと思う。
運命=仕方がない事
業や運命を受け入れたとき、カルマは清算されて、業や運命から解放される。
しかし犯罪に巻き込まれているときに、犯罪を受け入れていたら、業(カルマ。ストレス)は増える。
罪を償うから業(カルマ。ストレス)は清算されるのだ。
仏教は業による運命や宿命を否定していないと思っている。