fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

3月11日だね。

タイ、ネパール旅行から帰って来て10年か…。

 

2011年3月11日朝、

ネパールからの帰りの飛行機の中(空の上)で、

私の右手のファティマの手の目の手相と、

私の右手の千手千眼の一の目の手相が、

性交して、

漫画「バスタード!!」の

縦と横の平行励起

をイメージした。

ネパールからタイか、

タイから日本かは忘れたけど、

2011年3月11日の朝だ。

ネパールからタイ(ちゅうけい地)でタイから日本への飛行機を空港でまだ朝に待っているとき、

真鍋さんは南海(トラフの)大地震の(未来の)日付と時刻、被害状況について、まるで未来の情報を知っているかの様に、私に説明した。

私は記憶にブロックがかかる様に頭に入らなかったので、すぐに忘れた。

すると真鍋さんは何が聞こえたのか、かなり狼狽していて、

そこらにいるエージェントに質問しまくっていた。

私と真鍋さんは関西空港に着いたあと、

高速バスで徳島に帰り、私は昼にかけて自分の部屋で眠った。

 

そのとき地震が起こっている。

 

起きるとかあさんがテレビを見ていた。

津波のシーンがやっていた。日本に津波が向かっているという映像。

私は特撮の映画の内容か何かだろうと思い、

部屋に戻り、

私「さて、今日のご飯は何かな?」

と自分の部屋で言っていた。

そして、母に地震津波の事を聞き、ニュースを見た。

暫くの間僅かな時差ボケ?で現実感もなく、

ニートだったのでただ食べて眠っていた。

当時四国の私には東北は遠過ぎた。

距離も、心も。

今は母とふたりで行った東北旅行の思い出があるので、

遠過ぎる事もない。

 

 

タイ、ネパールに行く前、NHKの番組か何かで、日本は地震が多いから原子力発電所は向かない事と、核廃棄物の処理はきちんと出来ていない事をやっていたので、

ネパールで、真鍋さんとネパールの現地案内とかしているの通訳の?日本じん女性(NHKのエベレスト登頂の番組のエンドロールに出てたウプレティ美樹さんかな?忘れた。)と話しているとき、

私は「地震大国の日本に原発なんて要らねぇんだ!!」と叫んだ。

真鍋さんはかなり焦っていて、「(それ以上言うな!)」と必死に私を制していた。

その女性は、私が「2chとかネットでどんな風に言われているか知らないの!?何故ネパールに来る前にネパールの事を調べなかったの!?」

と言われた。

私は先入観を入れずにタイ、ネパールに行った。

確かに調べてから行った方がより配慮も出来て、知識も充実したかもだ。

でも構えてからでは響かない事柄はあったかもだ。

飛行機から関西空港に降りて行くと、

「打っても響かない」

とか壁紙みたいに貼ってあった。

 

 

幻聴「全校は25日(29日?)まで」

 

 

誰かが、東日本が、「東」が気に入らなくて東北北海道が被害を受けるのか、

私が精神的被害を受けるから東北北海道東日本が被害を受けるのか、

東北が丑寅の方角なので被害を受けるのか、

丑(タロットNo.15「悪魔」)の方角なので未(羊。美。西南。癌)に反するので被害を受けるのか、

寅(タロットNo.14「節制」)の方角なので被害を受けるのか、

角度調べるといいかもね。

 

でも「東」の東日本だけが気に入らないなら、

東京都は壊滅的被害を受けてもおかしくない。

コロナウイルスで被害は受けてるけど。

 

でもだいたい地震とか大雪とかなどでは

東北北海道、越?は被害受けてるけど、

東京都は被害あまり受けてない様に思う。

つまり東ではなく、「北」が被害受けてるんじゃないだろうか?

 

地震津波

死者数行方不明者は

宮城県がダントツ、岩手県はその次、

関連死では福島県が多いらしい。

月山は山形県なので東日本大震災の理由とは関係ないだろう。

 

 

未来予知のはずが未来予測になる事を考えるのは、

運命は自分できりひらけると勘違いしているひと達の考え。

実は未来予測程度で済むはずだった事が、

運命をきりひらこうとする事で予測よりもっと悪くなる可能性がある事は考えてないらしい。

そんな博打みたいな事考えないで、

被害を最小限にする為に

「自分の出来る最大限の備えを納得行くまでしておけば、

何が起ころうと後悔する事はない。(自分はやるだけはやったのだからと思える。)」

ので、

運命なんか「考えても仕方ない」んだから、

運命(決まってる事実)を考えて、

憎んだり、おののいたり、不安がったり、せず、

自分のそのときの最善をやっていれば、

死んだひとについては悲しいけど、申し開きが出来る。

 

私は、とうさんも、かあさんも、

死に目にあう事が出来て、

死ぬ前に出来るだけの事は出来たと思うので、

とうさんとかあさんが亡くなった事を、

後悔した事もないし、

悲しいと思った事も多分ない。

かあさんなら、自分との別れを悲しんでもらう事よりも、私にしっかり生きて行ってもらう事の方が喜ぶと思うので、

死んだひとに誠意を示したいと思うなら、

自分に自然に出来る範囲の、

生きている喜びと生き甲斐を見つけないとね。

 

老人ホームで楽しそうに暮らしているひとと、

老人ホームで認知症で、生きているのかいないのか、うつろな目で笑いもせず暮らしているひととの異なりはなんだろう?

家族は生きていてほしいと思うかもだけど、うつろな目で笑いもせず暮らしていて、生きていて楽しいのだろうか?

だからって他のひとが生死を決める必要はないけど、

死ぬとか死なないとか考える事もないという点では精神の保護措置だけど、

とうさんの認知症のうつろな目と笑わない顔を見ていて、

生きているという定義について、

活きているから生きているという定義もあるんじゃないかなと、

思った事もある。

自分に出来る範囲で、

何か生き甲斐があればなぁと今思っている。

雌うさぎを飼う事を考えたけど、

5年〜10年後にはうさぎは亡くなる。

会話もない。

雌猫も20年でも結構生きた方。

45歳から20年×2匹でも、85歳。

それ私にとって生き甲斐なんだろうか?