fatimariaの日記

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私の子供の頃の1番古い記憶。

私の子供の頃の1番古い記憶は、

どれが最初かわからないけど、

 

0〜4歳の間住んでいた奈良県の家の玄関の0.5歩すぐ前に道があり、

そこで1人で三輪車で遊んでいた。

うちの家側の前は当時は水田があり、開けていて(今は家々が建っている)、

自動車は今でも15分に1回くらい通るか通らないか位のあまり来ない道だった。

うちの家側には家がぎゅうぎゅうに林立していた。

そのうちの一軒(うちの隣の隣の隣?)の家が、

女子バドミントンオリンピック代表の水井妃佐子さんの家だ。

今はもうその家には居ないのかもだけど。

私は会った事無いだろうし。

何年も前に見たときは子供用の乗り物が置いてあったと思う。

奈良県大和高田市

三輪車の後ろ側には足を置く台があり、

それが金属で出来ていて、金属の切り目が最近の三輪車の様に安全で丸い構造にはなっていなかった。

ある日、私がアスファルトに立ったまま、三輪車の後ろ側から足を突っ込んだ形になった。

三輪車の後ろの金属の台とアスファルトに足が挟まれて、右足先の付け根(脚の甲と足との間の関節部分)に、

 

切り傷を食らった。

 

三輪車の金属の台の下側で切ったのだ。

血は出なかったと思うけど、

私が

「初めて痛みと傷という物を覚えている事柄」

を体験した記憶だ。

傷つけたのは三輪車の後ろの金属の台だ。

 

その右足の傷跡は46歳になった今もまだある。

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奈良の家では猫達と、黒い大きくない小さくない犬が出入りしていた。

ある日赤児だった私が歯のない口で蛸をしがんでいた。

その写真が残っているらしく、

次の瞬間、猫に蛸を盗み取られて大泣きしていたらしい。

その瞬間の写真も残っているらしい。

猫は、

パコ

ピコ

ポコ

ペコ

という名前がつけられて、産まれた子猫のときからうちで飼っていた。

その中で

雌猫のポコたんだけが残った。

ポコたんは私を尻尾であやす乳母だった。

 

ある日ワカメを水で戻していると、

また見ると無くなっていた。

かあさん「??」

そこでまた置いておいて観察した。

ポコたんが前足の爪を使ってワカメを釣り上げて全部食べていた。

うちは味噌汁など料理はだいたい煮干し出汁だったので、

出汁ガラの煮干しを口を床に擦り付けて猫が食べていた。

発泡スチロールトレイなどの容れ物に入れていても猫は何故か床に引きずり出してから食べるのだ。滑るから食べ難いのかも。

猫の口まわりもよだれで黄変して汚かった。

なので台所兼ダイニングの部屋は魚臭くて私は毎日毎日不快だった。

なので私はよーこちゃんを飼うまでは

「魚介類の臭い=猫の臭い」だと勘違いして思っていた。

よーこちゃんには食べ易さを考慮して、斜めになっていて、カリカリなどキャットフードが食べても食べても残さず無くなるまで転げ落ちてくる様な容器にいれていたので、わりと清潔だった。

しかしよーこちゃんにシャンプーは1回しかした事ない。

よーこちゃんは水も抱っこも怖い猫だったのだ。過去に何かあったのだろう。

今迄猫にシャンプーしたのはその1回だけだ。

猫は自分で舐めて清潔にするので、

血統書付きの猫とか高級猫とかじゃない雑種の猫なら、

余程の事やノミや汚れやかなりくさい臭いが無ければシャンプーする必要は無い。

 

ポコたんからは

グー

チョキ

パー

という子猫が産まれた。

グーはうまれつき鍵尻尾なのでグーという名前がつけられた。

そこから、3匹だったのでグーチョキパーと名付けられた。

グーだけが残った。

グーとポコたんは両方雌猫だったが、

グーは不細工で神経質な猫で私は好きではなかった。

私は私の顔をペシペシ叩いてくれる毛のふわふわの柔らかい尻尾が好きだったのだ。

札束でペシペシ叩かれてもあんまりときめかない。

親「使うのが決まってるからこんな大金見る事はあんまり無いで。よう見ときや。」

と親が言うので、

着物のときの帯グルグル「よいではないかごっこ」の様に、

熊に出会ったら死んだフリの様に、

大金が手に入ったときの儀式として、

かあさんに札束でペシペシしてもらった事ある。

グーは先に死んで、私のお気に入りの乳母だったポコたんの方が長生きした。

かなり高齢の老猫だったのに近所の若い雄猫達をメロメロにしていたらしい。

かあさんが雄猫を追っ払おうとすると、

ゴロンゴロンと寝そべって、「うにゃん。」とかかわいい声を出していたらしく、

かあさん「まんざらでもないんや…阿っ呆らし…。」とか言っていたらしい。

 

グーの子供だったか、

グーに似てこれまた目つきの悪い神経質な、

性別不明、ユニセックスタイプの茶虎猫のチャコちゃんを飼っていた。

チャコちゃんもポコたんに生活が似て、

濡れるのを恐れず、

ポコたんも、チャコちゃんも、

お風呂のお湯を飲む事と

お風呂にかあさんと一緒に湯船に入って支えてもらって浸かりながら気持ちいいの溜め息をついて、

その状態でお湯をピチャピチャ舐めるのが好きな猫だった。

私がお風呂入っているときも頻繁にお湯を飲みに来て、

私は手桶にお湯を汲んで私の出汁(ダシ)が出たお湯を飲ませていた。

藍住町の小学生の頃だ。

小学生の頃か、

台所の勝手口を後ろ手にバタンと閉めようとしたときに、

かあさん「阿呆!!!」

と怒鳴られたので、

何かと思えばチャコちゃんが隙間から内に入って来ようとして挟んでしまったらしい。

チャコちゃんは入るのをやめてピューッと外に逃げて行った。

かあさんに露骨に叱られる事は珍しかったので覚えている。

私はこの事も覚えていたので、

猫を飼う事が決まっているなら、猫の出入り口をはじめから作ろう と言っていて、

かあさんも雄猫のミルクの出入りが不便だと思っていたので、今の家には雄猫のミルク用に猫の出入り口が作られた。

今は雨戸で塞がれている。

今はコロナウイルスやマダニやノミや近所の猫との喧嘩などが危険なので、老猫の外飼いはすすめられない。

よーこちゃんは何度も逃げ帰って来たので、

完全室内飼いに切り替えた。

すると遅いのに帰って来ないとかやきもきしなくていいし、壊れた猫の出入り口を開けたり閉めたりしなくていいし、開けっ放しだと蚊が入るので、完全室内飼いは割と快適だった。

 

奈良の家で4歳までは住んでいたが、

私はその頃、

かあさんが忙しいときなど、田中家系列の親戚の

清水のお婆ちゃん

(今の隣の家の田中さんとは全く関係ない。うちも田中家の系列で、東(あずま)家は武士の家系らしい。とうさんの1つ姉の伯母ちゃんが言っていた。)

に育てて貰ったお婆ちゃん子で、

お婆ちゃんがうちの前の道を通って駅前の方角の医院に行こうとすると、私はお婆ちゃんの押し車にでっかり乗っかって、私を連れて行くのが当たり前の様に思っていたらしい。

お婆ちゃんは困っていたらしいが、

私はかなり厚かましかった。

赤児の私が乗っている、うちの中庭にあった金属製のシーソーを押している清水のお婆ちゃんの写真が残っている。

私のお葬式初体験は清水のお婆ちゃんのお葬式だろう。

淡い虹色の走馬灯籠が設置してあって、

そのときはもう徳島に住んでいたので、清水のお婆ちゃんが死んだという実感も悲しさも無く、

その走馬灯籠がとてもきれいだなぁと思っていた。

あのときの淡い虹色が、私の美意識感覚に及ぼした影響は大きいかも。

私が最近描く絵は虹色あまり使わないのだけど。

最近は人物はアニメ調が好みなので。

清水のお婆ちゃんとは不快な思い出も無く、私側としてはいいお別れが出来た。

あんな豪華なお葬式してもらえたなんて、

清水のお婆ちゃんは身分高かったのだろうか?

それともあの辺の田舎では当時それが普通だったのかな?

 

清水のお婆ちゃんの嫁(清水のおばちゃん)には子供が出来ず、

封建的な田舎の嫁に来たのに子供を産めなかった清水のおばちゃんは性格が捻くれて、

私をかわいがる清水のお婆ちゃんを見て、多分私を快く思ってなかったはずだ。

清水のおばちゃんは私が子供の頃から眼鏡をかけており、

そのご、白内障で目が青くなり、ほとんど目が見えなくなったのか、入院したようだ。

そのとき見舞いにとうさんと行ったが、老齢の清水のおばちゃんは「俊ちゃん!?あのヨバレ(オネショ)垂れてた俊ちゃんか!!アッハッハッハッハ!!」

と嘲笑っていた。

私「(おばちゃんのじん生はどんなにストレスフルだっただろう?)」とおもんぱかるしかない。

私が眼鏡のひとを見るとこわいし、傷つけられるんじゃないかと不快で不安になるのには、

清水のおばちゃんが眼鏡をかけていたから

というのもある。

 

清水のおじさんは嗄れ声だったが、

ひと当たりが優しく、

農家だったので、

一緒にトラクターに乗せてもらったが、

当時はディーゼルエンジンがそうだったのか、目の前に煙突が立っているトラクターで、私は目の前にあるので煙突を手で握った。

手を火傷して私は大泣きした。

わんわん泣いていたらしいが、

おじさんかとうさんか誰かが手をすぐ冷やすとか適切な処置を何かしたのだろう、

手に火傷跡が残っていない。

 

清水家の田植えか何かをとうさんと手伝いに行ったとき、私は人工自然が楽しくて遊んでいたけど、帰ったとき清水のおばちゃんが炊いたであろう、醤油などでオリーブグリーン色の炊き込みご飯がとても美味しくて、何杯もおかわりした。

とうさん「なんも手伝いしてないのに…。」

と息子の厚かましい行動が恥ずかしい感じで困っていた。

その事だけ清水のおばちゃんのいいイメージを覚えている。

 

清水のお婆ちゃんのくれる甘いお菓子目当てで、清水の家にいつもの様に遊びに行くと、

「てれびくん」という子供向けの雑誌が置いてあった。

読んでみると、漫画で、

裸の男女が股間に葉っぱをつけただけの姿でターザンの様に蔓に捕まって移動しているけど、

裸なのに女の子も怒りもせず、全体的に明るい雰囲気だった。

4歳前後?の無垢だった私は衝撃を受けた。

清水のお婆ちゃんか、清水のおばちゃんか、

多分内容知らずに置いたのか、わからないが、

 

私のその後の性癖

(女性が裸や半裸でも嬉しそうにまんざらでもなさそうに笑ったり微笑んでいないと興奮しない性癖)

が決まってしまった。

 

ひとの性的な性癖は、

小さい子供の頃のふとした衝撃の出来事で決まってしまうのかも。

 

その後、奈良のうちの家に性的な漫画雑誌が置いてあった。

少年マガジンなど1冊か2冊だと思う。

パラダイス学園

Oh!透明人間

やるっきゃ騎士

が載っていた。

私は大型連休で奈良の家に帰る度に、

その分厚い漫画雑誌を見て、

それをおかずにマスターベーションしていた。

 

3歳奈良県居住での最後のクリスマスだろうか?

古いブラウン管のカラーテレビのあったコタツの部屋で、

タージンガーの超合金と一緒に家族でケーキを囲んで楽しそうに写っている色褪せた写真が残っている。

 

台所の土間はかあさんが床や壁紙を貼ってリフォームをきれいにしてあった。

ただ、横から突き出た梁だけは、隠してもみんな頭を打つ位低かった。

 

仏壇のあった部屋には蚊帳をセットしてあった事がある。

そのごお稽古場になって、畳に合う大きな黒い木の机が置いてあったが、

大人になってからとうさんと奈良の家に泊まるときに、

布団が敷けないので、掃き出しの大きな戸にその重い机を立て掛けて、

布団を敷いて寝ていたのだけど、

いつ机がこっちに倒れて来るかと気が気ではなかったので、なかなか眠れなかった事もあった。

 

廊下を通って奥の部屋はとうさんが中庭の方に張り出して増設して、あかりとりの雪見障子を内側に、作った廊下を挟んで外側にはガラス戸を、

というとうさん自慢のお稽古場だった。

しかしある日、とうさんが中に灯油ストーブを点けっぱなしで忘れて、

たまたま留守のうちの家を管理しているとうさんのお弟子さんのお隣のお姉さんがその部屋を開けると、チリチリになるまで部屋の温度が上がっていて、

その部屋一面すすだらけになっており、

あと一歩遅かったら全焼してお隣のお姉さん宅も危うかった。

火事にはならなかったが、

結局そのお稽古場は作品の物置になり、

習字を教えていたお弟子さんも大人になってやめて行き、

お稽古場は私が勤める頃にはさっき蚊帳の部屋になっていた事があると言っていた部屋に移っていたらしい。

かあさんもたまにうっかりさんだが、

とうさんもうっかりさんだったので、

子供の私もうっかりさんなのは仕方ないかも。

 

私は奈良の家の暗い廊下でかあさんに散髪してもらった事がある。

私は耳を切られたらしい。

切断された訳ではなく、切り目入れられたらしい。

暗いからよくわからなかったと言っていた。

 

奈良の家の暗い廊下の途中にあるトイレは、昔は汲み取り式の上に、空洞で下に落ちる洋式便器を置いてあり、

結局汲み取り式で、

いわゆるボットン便所なのだけど、

便器の分、便ツボの底までかなりの高さがあり、子供心にこわかった。

落ちたら死ぬといつも思っていた。

蜘蛛の抜け殻もあって気持ち悪かった。

やがて水洗トイレになって、股から、遠い便ツボの便が見えないのでかなり清潔に思えた。

 

奈良の家の暗い廊下の横のお風呂は五右衛門風呂を改良したまわりタイルばりのジャリジャリに錆びた金属?の風呂釜で、

横のトイレの横側から入って釜を薪でくべてお湯を焚いていたらしい。

かあさんも

魔女の宅急便」のオーブンの様な火の点け方で、

となりのトトロ」の台所でのサツキの調理?お風呂焚き?の様に薪をくべて火を焚いていた。

とうさんが徳島県の藍住の家を改築するときに、

23歳頃、藍住の家を壊すときの

あかりとりの雪見障子とガラス戸と、灯油給湯システムを

奈良県の家にとうさんが運んで来ており、

お風呂は灯油で焚ける様になっていた。

 

 

4歳になってからとうさんの勤務の都合で、

奈良県から

徳島県徳島市の南矢三(みなみ やそ)に引っ越して来た。

そのときにもうキリスト教徒になる事は決まっていたのかも。

やそ→耶蘇

耶蘇教(キリスト教

その借家付近には10年前位に見に行ったときは熱帯魚(や水槽)のお店アクアショップの「なまず園」が出来ている。

そのすぐ前の道を、ECCジュニアの家を横に北に少し進んだ突き当たりの道の北西に建っている家(突き当たりが駐車場)が多分元私が住んでいた住所だと思う。

今は建て直しされて昔私が住んでいた家とは異なるようだ。

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南矢三はある程度 眉山 の近くで、

(近くと言っても景色に見える位で、幼稚園児が歩いて行ける距離ではないと思う。幼稚園のとき行った覚えはない。

その点は

「乙女はお姉様(ボク)に恋してる」

の過去のまりあイベントとは異なる。

私はそこで千松幼稚園(せんしょう ようちえん)に入園した。

多分れんげ組だと思う。

黄色いベレー帽の写真が残っている。

せんしょう→戦勝

千(千手千眼)

 

その家に住んでいた頃に同い歳位か少しだけ歳上の女の子に出会った。

「りょうこ ちゃん」

と、かあさんが呼んでいたその女の子は、

泣き虫ですぐ諦める気が弱かった私をグイグイ引っ張る女の子だった。

その住所の駐車場になっているところは畑への通路になっており、

今もハレルヤ美容室の北裏の東に畑が広がっている様だ。

その畑の端を通って、東の方へ、りょうこちゃんと走って移動した事を思い出している。

畑から通路側(南側)には眉山があったと思う。

私の覚えているりょうこちゃんの情報は、

 

南矢三の家の近所に住んでいた同い歳位の私の幼馴染

りょうこちゃんは京都府に引っ越した

泣き虫の私をグイグイ引っ張る活発な女の子

当時にしては珍しいかもな「きゅうりか何かのキムチを食べていた」

 

MKさんは6歳歳上なのでりょうこちゃんではないが、

その家の近くに住んでいた。

私の所属していた文芸部の顧問の家だ。

 

南矢三で買い物は20年前位までキリン堂のあった場所に

大きな「麒麟(首と脚の長い方の麒麟)の像」があった場所にある程度大きなスーパーがあって、

かあさんはそこで買い物をしたりしていた。

ある日私が、

クリスマスに食べる様な骨つきの鶏肉の炙り焼きを、肉屋?の店の前にある透明張りの肉の棚の中に見て食べたくなり、

「(かあさんが来るまで隠しておこう。かあさんに見てもらって喜んでもらって買って貰おう。)」と思って、

肉屋の透明張りの棚に背中をつけてぴっとりもたれかかって身体でその商品を隠していた。しかし身体で透明張りのほとんどが隠れていた様だ。(営業妨害の幼稚園児…。)

なかなかかあさんが来なかったが頑張っていたら、かあさんが来たので「かあさんこれこれ!」と振り向くと、その日はもう店仕舞いされていた。

店のひとからすれば

隠されて売る事が出来ず困った事態だけど、幼稚園児をむげに出来ないし、もう遅いし店を閉める時間なので、閉めたのだろう。

しかし私はご馳走様を買ってもらうつもりで隠していたのにご馳走様も食べられず、

かあさんにもご馳走様を見せられなくて、

店のひとに私に何の相談もされずに閉められた事が悲しくて恥ずかしくて、

その場で大泣きした。

あとの事は覚えていない。

 

ある日南矢三の家でかあさんが風邪で寝込んだ。

かあさんは私に感染させない為に私を遠ざけた。

私はこっそりかあさんがいるときには出来ない、

女性モノの服(かあさんの服)を着たくなった。

着てみた。ドキドキした。

かあさんに見せて褒めてもらいたい思いと、

恥ずかしいという気持ちとが入り混じり、

かあさんの寝ているガラス戸で区切られた部屋の前をウロウロした。

かあさんは風邪で朦朧としながらも褒めてくれたが、私はかあさんのその状態を見て褒めてくれても嬉しくなかった。

かあさんのコンディションがきちんと正常な状態で、それでもなお女装した男の子の私を褒めてほしかったのだ。

でもかあさんはいつも何でも私の味方だった。

その事は今でも少し涙が滲む位感謝している。

悪い事はきちんと叱ってくれた。

かあさんに任せたら必ず安心だという安心感、しっかりとした支え感はすごかった。

物知りで、質問したらほとんど何でも正確に答えてくれた。

家庭科以外の成績はよく、

中学生のときは学園のマドンナだったらしい。

しかし小学生のときも貧乏で家に時計が無かったので遅刻常習犯、授業料滞納常習犯、の学級委員長だったらしい。

それでも当時田舎の家なのに短大まで進学出来たインテリだ。

純粋に文系だけど。

なんか数学がわからなかったらしい。

それでも私よりは成績よかったらしいけど。

かあさんは子供の頃から貧乏で戦後の食糧難だったので、栄養失調で病気がちだった。

とうさんと結婚してからも限界まで無理するタイプだったので、よく目眩で倒れて寝込んでいた。

三半規管が弱かったらしい。

咳き込む病弱とはまた異なる。

 

南矢三では金太郎という犬を飼っていた。

金属製の組み立て式の家庭用鉄棒と一緒に写っている写真がある。

ある日かあさんが情けない声を聞いたので行ってみると犬小屋から滑り落ちてリードが引っかかって首吊り状態でもがいている金ちゃんがいたらしい。

助けてあげても何日かしたらまた同じ事やってたらしい。

かあさん「こいつ阿呆ちゃうか。」

ある日金太郎は子犬を産んだ。

かあさん「金ちゃんお前雌だったの!!?」

雌である事を知らずに金太郎とか名前つけてたらしい。

そんなかあさんを兄貴が言うには「サザエさんそっくりじゃん。」

兄貴にしてみれば、インテリの学園のマドンナの母親も、うっかり陽気なサザエさん

多分うっかり陽気な愛されキャラだったので学園のマドンナだったのかも。

 

うちの金ちゃんは

坂田金時やのに、雌犬。

坂田金時やのに、学習しない首吊りの阿呆犬。

という訳で、

うちの家で飼ってた犬は、

雌犬だけなのだ。

 

金太郎 雌 私が幼稚園児のとき

花子  雌 私が中学生から専門学校生位

エリス 雌 私が高校生から専門学校生引きこもり卒業して無職引きこもり位

チビ  雌 私が専門学校生位

 

金ちゃんの産んだ犬はツテに分配したらしい。

 

のちに南矢三の家の大家さんだったひとが三階建て以上の家(三階建てかな?)を建てたときに親と一緒に見に行ったけど、

そのときくじ引きをどうぞと言われて、

私「こういうの当たった事無いんですよ。」

と断っていたが、

かあさんが「まあ引いたらええやん。」と言うので、引いたら、案の定当たらなかった事がある。

南矢三のなまず園付近に三階以上建ての戸建ての家があったら多分元大家さんの家はそこかも。

 

南矢三には数ヶ月間だけ住んでいた。

徳島県藍住町に引っ越したときは、

藍住南幼稚園年少組に転園した。

藍住南幼稚園では、

私は並んで順番に予防接種のときに痛かったので

合同教室のコーデュロイみたいな床にお漏らししてしまい、

帰りに保母さん達が怒った様な表情で雑巾で叩き拭きしていたのが情けなくて覚えている。

 

その頃はみんな短い靴下を履いていたのに、

私だけ長い靴下を履いていたのが密かな自慢だった。

脚を蚊に刺されて掻きむしったあとが水ぶくれになっており、恥ずかしかったので小学生のときも長い靴下を履いていた。

私は小学生の頃からも毛深くて、すね毛がもじゃもじゃの剛毛だったのだ。

私は毛深いので「ハイスクール奇面組」の豪の担当だったが、ツッコミではなく空気読めない無知の天然ボケだった。AB型のリーダー(一堂零)役の竹松真司(シンジ)に いつもはたかれていた。

すね毛を隠す為に長い靴下を履いていたという理由もある。

小学生の半ズボンを早く卒業して、

中学生からの長ズボンに憧れた。

 

幼稚園児の頃はアニメ「まいっちんぐマチコ」の再放送かの影響で、

私はスカートめくり常習犯だった。

中川という同級男子がいて、私と2名がスカートめくり常習犯だった。

私がスカートをめくると、

女子は「もう(笑)!」

と顔を少し赤らめて嬉しそうに笑うので、

なんかもう そのまんざらでもない反応が気持ちよくて、

常習犯になってしまった。

おとながやると前科者だ。

 

あとは年長組のときだろうか?

餅つきを幼稚園の庭でやる事になって、

あまりに杵が重たかったので餅はきちんと搗けなかったが、

卒園写真集には藤川と吉田だったかな?と男子3名で餅つきのポーズをとっている写真が残っている。

 

私はエスカレーター式に藍住南小学校、藍住中学校へと入学した。

 

 

なので、私の1番古い記憶は、

三輪車でついた傷の記憶か、

てれびくんの裸の男女漫画だと思う。