キリスト教の考え方だと、
全身洗礼や、一度でも全身を洗った人(人間)は、
足のみが汚れる器官で、
他のところは汚れない。
そして、
人(人間)は、心から出て、口から出る、自分の言葉によってしか汚れないので、
人(人間)は、足(foot)のみが、自分の言葉によってのみ、汚れる。
という事になる。
足洗いながら無駄話しましょうか?ね。
幻聴「あずま君その考え方だと心は汚れないという事に」
なるね。
中から出るものによってしか汚れないとすれば、
心から出て口から出るものによって、内側が汚れるけど足しか汚れないとすれば、
心と口は足の外にある事になるよね。
足洗えば心や口の中がきれいになるなら。
幻聴「あずま君、つまり足というのは口の中の心の中にあるという事に?」
心の中の足を洗えばいいの?
でもキリストが洗ったのは使徒達の足だよね?
では教徒、信徒達の足はどこにあるのでしょう?
口の外にある足じゃなくて、
心の中にある足を洗えばきれいになるのでは?
人(人間)は、「心の中の足(foot)」のみが、
「自分の心の中の足(foot)から出て、自分の心から出て、自分の口から出る、自分の言葉」によってのみ、汚れる。
「心の中の足(foot)」だけ洗ってもきれいになる。
キリストが洗ったのは1回で済んでる。
でも出来れば最初は大事なひとの足を洗ってあげたいものだ。
あとは「足(foot)を洗い合いなさい」と書いてある。
心の中の誰かの足の言葉で汚れたと思うなら、その大切な誰かと洗い合うイメージでいいと思う。
心の中の自分の足を洗ってもいいし。