fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

ものみの塔のひととの会話。

数日前、エホバの証人ものみの塔)のひと達が訪れた。
インターホンで会話が始まった。
 
聖書には「聞き入れてもらえないなら、二人で行けば聞き入れてくれるだろう」という事が書かれているので、エホバの証人のひと達はいつも二人くらいで来る。
 
私はイェホヴァの証人なら聞く耳を持つかもだが、エホバの証人には同意する耳を持っていない。
 
家に仏壇があるかどうか遠まわしに聞いてきたので、
私「家に仏壇はありますけど。」
それでもひるまず、話を続けてくる。
ものみの塔のひと「ひとは死んだらどうなると思いますか?聖書には…伝道の書の?章のところですね。死後には意識も無く…~」
どうやら死後は何も考える事も無い、何も無いから安心だという方向で持って行くつもりなのだろうかと思ったので、
私「コレヘトの言葉には…。」
ものみの塔のひと「コレヘ…何ですか?」
私「(そうだった…。ものみの塔の聖書は言い方が異なる。)コレヘトの言葉つまり伝道の書には、死後はみんなシェオルに行くと書いてありますよね。」
ものみの塔のひと「シェオル!そう、シェオルです。聖書をお持ちなんですか?」聞かなくてもわかるだろ。と思ったが声には出さない。
ものみの塔のひと「シェオルに行くというのは?章、意識もない~と書かれているのは?章です。」
自分達の聖書を確認しながら言っている。
私「死んだあとは何も無いなら復活はどうなりますか?ものみの塔の方は復活を信じてはいないんですか?
たとえばスティグマがありますよね?交通事故で身体ぐちゃぐちゃに亡くなった方は、復活したらぐちゃぐちゃのまま復活するんですか?」
ものみの塔のひと「それは啓示(ヨハネの黙示録)?章にこんな事が書いてあります。「私はすべてのものを新しくする。」だから交通事故で亡くなった方も、生きていた頃と同じ新しい身体で復活するという事です。」
私「ではものみの塔の方は意識が無いとは言いながら、復活を信じておられるんですね。」
ものみの塔「そうです。ここでは説明しきれないので、詳しく書いた資料がありますので郵便受けに入れてもよろしいですか?」
私「いいですよ。」
 
ものみの塔バベルの塔)のひとが帰ったあとで入っていた資料をパラパラとめくってみた。
いろんな宗教の学者の説を集めて、聖書の内容を論じている。魂(息)についても少しふれていた。
資料は派手な勧誘というより、郵便番号と神奈川県海老名市の住所しか書いていない。
しかし訪問回数が多い。ふた月に一回くらいは来るだろうか?そして前回のひととの繋がりが無い。いつも同じ事を聞いてくる。仏壇はあるか、聖書を持っているか。そして私が聖書に詳しい事にいつも驚く。前回のひととの連絡、繋がり、という組織力は無いのだろうか?
 
 
魂(プシュケー。)は息(プシュケー。呼吸する状態)なのだから、生物としての息をしなくなったら魂はそこに無いのだ。簡単な事だ。
では身体を脱いで、行ったところに呼吸はあるのか?
シェオルに行けば意識も無い、考える必要が無い。
「シェオル」とは、イスラエル初代王「サウル」と同語根で、「黒、墓、冥府、黄泉」とかいう意味だ。
土の中の、光の当たらない黒。墓。それがシェオルだ。沙織や詩織や栞などの名前はここから来ている。
 
YHWHの霊が身体に留まるのは120年。それ以上は肉に過ぎない身体に居る事が不都合である為に、出る。
YHWHの霊が出てしまったら意識も無いし、呼吸も無い、地下に入る という事だ。
その身体を新しくするのが啓示(ヨハネの黙示録)の復活らしい。
無い事ずくめだ。
ものみの塔のひとの話だと、生きていた頃と同じ死ぬ身体に新しくしてもらっても、また死ぬ悲しみがあるんじゃない?
私は新しくしたときに常若不死になると思うけどね。
 
もしYHWHの霊が心の中にあって、心の中から出て、口から出るのであれば、ひとは汚れてしまう。
呼吸は心関係なく行っている。深呼吸にしても同じ事だ。深呼吸の意識するときは、吸う酸素だ。
息とは吐く事にある。意識して吐いたとしても、心から何か出るわけではない。
心から出て、口から出るものというのは、北教会の牧師さんも言っていたが、「言葉」の事だ。
言葉を口からしゃべると、ひとは汚れる。出た言葉が記憶(あるいは記録)として汚されるのだ。
カラオケで歌うとする。その歌詞がその歌や歌詞を思い出したくないときに頭に流れてくる。それは記憶が汚れているからだ。
 
 
豆乳をティーカップに注いだ。「い~がう~~♪」お、豆乳も制圧したね。
豆乳を飲む。「いが~~ぅ~~~♥」まるでキスしてる気分だ。
かわいいね、いがう のものは。「いーが゛うぅ~~♪」が゛の部分の響きが色っぽかったよ。
 
今日は猫穴から入ったのか、私の部屋の隣のリビングによーこちゃんが寝そべっていた。
久しぶりに腹に顔を埋めさせてくれた。頭もあごで撫で撫でした。
気持ちよかった~。「いがうー!!」いがう のものはいがうのものでかわいいよ。よーこちゃんより色っぽいし。
「い が うっ♪」うん。かわいいね、いがう のものは。
 
 
復活がこの統合失調症精神分裂病)の症状であるならば、常若不死でなく、結局死後は「何も無い」という事はありうるわけだ。
それだと復活の前とは「明日は炉に入れられる花も咲き誇る」というやつだ。
私が教会で聞いた言葉は、「自分の十字架を背負ってキリストについて行く」というものだ。
自分の十字架は、自分の殉教(死)に至る為の重い強制力(呪い、運命)だ。
何故重いかというと、運命、呪いに従わないから重いのであって、運命、呪いに従順に従う気満々ならとても軽くなる。
復活の前には当然死がある。
自分の十字架を持っているひとは殉教して、復活するという杯を受けるのだ。
ワールドカップなどが何故「杯」かというと、「受難を受けて死んで復活する」という一連の神の業が「杯(の強制力)」だからだ。キリストすらこれから逃れる事かなわなかった。
そして十字架はその「死ぬとき」自分の体重を支えるものだ。磔刑されていると死ぬとき地面に触れない。
大地(ゲー。ガイア。)に触れないで死んで行く。
でもこれはキリストや弟子達がされた事であっても、現実に我々が磔刑される事はまず無い。
自分の十字架を背負ってというのは、精神的な十字架(呪い、運命)の事なのだ。
教会に行くひとはまずその呪い(願い事)を決めてから行くべきなのだ。
どんな願い事で死ぬのか決めてから行くべき。
統合失調症の症状(幻聴など)が出てきたら、「その時が来た」と思うべきだ。長いラッパの音(長い車のクラクション)が聞こえたら、あるひとの審判がはじまっている。それを乗り越えたときに、地獄に居るのか、天国に居るのか。
終わるまで自分のもの(自分の十字架)を保っていなければならない→かたくなに、病的になる。保っていなければという事を意識するが為にその事(自分の十字架)が自分の中で大きく、大きく、なって行く。
でもキリストは重くて歩けなくなったので、シモンというひとに代わりに十字架を背負ってもらって丘まで行く。
重い「自分の十字架」は代わりに誰かが背負っていても、やはり自分の磔刑に使われる十字架となるという事だ。
たとえば配偶者に関する十字架(願い事)を決めて歩いていたら、「代わりに持ってもらう」という事ができるだろうか?願い事はもっと考えた方がいい。
 
たとえば「~になりたい」という十字架(願い事)を背負って歩いていたら、それが叶っただけで死んでしまう。
荻窪の教会に連れて行ったみやけさんは画家の夫がいるので、画家の卵を潰し続けているのだ。画家に「なっただけで願いが叶って死ぬ」ひとを多くする事で、みやけさん夫妻は安泰だからだ。教会に連れて行かれるひとはそういう事を知らない事が多い。
 
「死ぬ前にしておきたい事」それがキリスト教の「自分の十字架(願い事。保っておく事)」になるべきなのだ。
 
でも死ぬのがこわくて教会に行くひとがいるのだろうか?手本が磔刑死のキリストの教会に。
命を捨てようとするものがかえって命を得る。
 
私は、自分の命も捨てて、すべて捨てて、自分の十字架(願い事)も捨てて、キリストさえ捨てて、キリストについて行く者でなければキリストに相応しくないと考えている。当然キリストは「父なる神だけ」の人の子なので、我々はキリストの事を考えたらキリストに相応しくなる必要が無い。
でも「私に繋がっていなさい」というからには、繋がりを持っていなければ葡萄の木の体(ソーマ。聖体)として機能しないというわけだ。葡萄の果汁である血が通わなくて壊死してしまう。
葡萄栽培の農夫は、間引きも行う。
でもキリストである葡萄の木(聖体、ソーマ)は厠に落ちるだけである。出て行くだけ。キリストさえ捨ててキリストについて行くのだ。
 
命を捨ててまで得る価値のある十字架(願い事)かどうか考えたらいい。
 
私は当時画家になりたかったが、今はそんなでもない。死ぬのがこわいわけではない。命を失うほど画家になりたいかって、そんなわけないのだ。私は絵を描いて暮らしたかったから画家になりたかったのだ。
でも今は、「絵を描きたいか」というとそんなでもない。
 
 
まわりは「描けるのに何故描かないの?もったいない。」と言う。もったいない→損している。という事か?
たとえば老婆に向かって「鏡があるのに何故使わないの?もったいない。」と言うひとがいるだろうか?
確かに鏡は鮮烈に映し出すだろう。自分を。
 
 
その為、鏡の中はできるだけポジティヴな内容でなければいけないのだ。私はネトラレ系とか作っているひとにそれを警告したい。自分が影響を受ける作品も選んだ方がいい。
 
私は大事だと思っていたものを失ってしまったのだ。別にネトラレ系を描いたわけではないのだけど、悪夢に苦しめられてね。描く気を失ってしまった。
幻聴に「へたくそ」と言われた。悪夢はそれとは関係ないのだけど。
実際私の絵のレベルでは画家として食べて行くのは難しい。まあ画家に「なっただけで死ぬ」なら食べて行く事は考えなくていいのだけど。
画家としてやって行くには賞とかその世界での根回しとかの下積みも無い。多分画家としてやって行くだけの力は今も無い。
それに描きたい絵も無いしね。
昔は気に入ったところがあればすぐ絵にしていた。最近は「その絵は誰のものになるの?」と考えるとあほらしくて描いてられない。
多分絵描きの能力は自分のイメージしたものを具現化する能力を身体で覚える事。
身体で覚えていればいつでも描ける。でもあるイメージが心の中で具体化されている間ってのはそんなに長くない。自分の癖で描く方がはるかに描きやすい。
 
誰かの為に描くという事も考えた事はある。じゃあ誰の為に描く?パトロンの為にか?お客の為にか?配偶者の為にか?
私に描いてほしいと思っているのはかあさんとかあさんのお弟子さんくらいだ。私はそのひと達の為には描きたくない。義務のように描いてもいい絵は描けない。描けるひともいる。でも技術的に上手いという事と、いい絵であるという事は必ずしも一致しない。私はもっと衝動的に描く。私がいいと思う画家は、もっと計画された絵だ。どこにどう色を置くか描く前から知っている。私とは描き方が異なる。
私はこうしてぐじゃぐじゃ愚痴と理屈を垂れている方がスキルとして楽なのだ。「何回ゆーたらわからんらしい」
私に絵を描いてほしいというひとがいると、「失礼な事を頼むひとだ!」といつも思う。プライドの問題ではない。
私は自分の描いてきた絵を見て、「絵は未来や自分達の状態を映し出す鏡だ」といつも思う。
そんな危険な事を、軽々しくよく頼みやがるなあ!といつも思う。
そういう事をかあさんもかあさんのお弟子さんも、わかってない。いつも腹が立つ。
社会に貢献する為に描かないの?って思うひともいるかもだ。
社会が何をしてくれた?社会が私の病気を完治してくれたのか?社会に貢献したいほど社会をいいものだとは私は思っていない。社会は純粋な私をあざ笑ってただけじゃんか。
じゃあ社会に復讐するかって、私はそんな事はしたくない。復讐はYHWHがすればいい事だ。私の仕事じゃない。
貢献の字見てみろ。みつぐ、ささげる だ。 みつぐ、ささげる 相手は私の伴侶だけでいい。