fatimariaの日記

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食べ、描いていい理由を聖書に基づいて説明。

私の知識が欲しいひとは、このブログにいっぱい書いてある。
読めばだいたいわかると思う。
このブログ、長すぎて全部読むにはハードルが高くなってしまっている。
 
Q1:イエスが悪魔に誘惑されたように、食べたら堕ちるんですか?
 
A:ヨハネによる福音書21:12参照。
「朝の食事をしなさい。」と復活したキリストご自身が言っているように、
食べる事は堕ちる事ではありません。
そもそも全ての罪は神に赦されている
マタイによる福音書12:31参照。
ので、
誰も、神も、天使も、悪魔も、何者も、堕ちる事は無いのです。
悪霊は初めから悪霊なのです。
 
Q2:旧約聖書十戒の2番目で、絵を描いてはいけないんじゃないですか?

とか質問されたとしても、私は「絵を描ける」という正統で、正当な理由を旧約聖書に基づいてこれだけで説明できる。
 
A:旧約聖書エゼキエル書」4章1節
口語訳聖書
人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。
 
人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。
 
新共同訳聖書
人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい。
 
描きなさい(命令形。つまり「命が下っている」)。彫りつけよ。刻みなさい。
これは誰がエゼキエルに命令した事か?
エルサレムは場所的にどこにあるのか?
 
 
ヘブライ語などセム語系のアルファベット文字も漢字も、絵だ。象形文字だ。
アルファ(アレフ)は、「牛」の絵。これ、「像」だ。
ベット(ベイト)は「家」の絵。
 
重要: 
ヘブライ文字や漢字や(漢字由来の)ひらがなカタカナを書くという事は、絵を描いているという事だ。
旧約聖書ヘブライ語で書かれている。
世界の言語のほとんどは、この「絵をつくる事」で表記されている。
これを念頭に置いておいて欲しい。
 
「像」については後述する。
 
 
十戒の1番目は神を一柱にする為の工夫がとられていて、この文を訳のまま受け取ってはいけない。
原文はこうだ。
 
あなたに在りえない 他の神々が 私の顔々の上に
 
私(男性形単数)。
顔々(男性形複数)。
多面?
 
これは他に神があってはならない のではなく、
 
「私の顔々」とは、「あらゆる神々を内包している」から、あなたに他の神々は在りえない。
そう。他の神々が在りえない。「すべての神々の存在」が、「私」だから。
という意味と、
私の顔々の上に無い とは、「すべて私の顔々にひれ伏す。私の顔々が頂点だ」
という意味だ。

エロヒームは神の複数形で神々という意味で、
YHWH・エロヒームとは、「神々の存在」の意味で、神々が1柱も居なくなったとき、YHWH・エロヒームも居ない。
という事。
この為、一神教だと、YHWH・エロヒームは居ない という事になる。

十戒の2番目は、
十戒原文の「自分の為に」造ってはならない物という「フェセル」「テムナー」は、
日本語訳では「刻んだ像、偶像、いかなる像」と訳される。
現代ヘブライ語ではフェセルは「彫像、偶像、彫刻」、テムナーは「絵、絵画、場面、写真、肖像画」という意味。
 
ぱっと見た感じ、
十戒の2番目で問題になっているのは、「エル・クァナー(神、嫉妬する者)」「ポケッド(罰する者)」という文だ。
嫉妬の神なら1柱になってしまう。
ここの文の「私」は男性形単数の「YHWH・エロヒーム(神々の存在)」。
この文の「私」の顔々はエロヒームのすべての能力。
と書いてあるのだ。
 
当時は写真など無かったから写真は除外しても、

重要:
ここで言っている「私」は、「あなた」が像を造っても(十戒を破っても)「罰則は、」「殺す」とは書いてない。
十戒を守る者としての分の 慈しみ(ヘセド)を受けられない」だけだ。
 
「私を憎む者達」には、「父祖達の邪悪」を、息子達~四代目まで(与える)。
父祖達の分だけ。自分の父方の直系先祖達だけ。つまり男性の場合、同じY染色体の邪悪を。
自分の父親や祖父達の「悪い所が似てくる」って事だ。四代目まで。

しかし、私を愛する者達と戒めを守る者達には、千代の慈しみ(ヘセド)を(与える)。

愛せよ。となる。

この旧約聖書の1柱、「嫉妬」が発動するときはどんなときか。
旧約聖書には、たとえば「妻が不倫を行ったときの夫の感情」。
不倫を行ってしまってから激怒する姿だ。信頼しているから事前には止めない。
私は ここに在るのに 何浮気してるんだよ というわけだ。
あなたはそれらにひれ伏すな またそれらに仕えさせられるな
これは頂点は「私の顔々」だけという事。
場所「天の中のところの、また上にあるところの、地に、下にある、また地の下の水の中にところの」
それらに「ひれ伏すな仕えさせられるな」の「それら」とは、
「造るな」にかかっている「フェセル」「テムナー」なのか、
上記の場所のもの なのか?
あなたのために造るな は 「フェセル」「テムナー」だ。
文章の結果こうなる。
あなたじゃないもののために造るのは許可されている。
上記のどの場所にもいない者の像を、作る、造るのは許可されている。
あるいは、
上記の場所のものに、「ひれ伏すな、仕えさせられるな」。かなり傲慢な人間になってしまう。じゃあ仕事ができない。
私の顔々
イスラエルの民
上記の場所の者、自分達で造った像
というヒエラルキーを示す事になる。
これはやはり全部繋げて、
「上記の場所のもの」の「像」をあなたのために造るな。「像」にひれ伏すな、仕えさせられるな。
これで
私の顔々
イスラエルの民
上記の場所の者を自分達で造った像
というヒエラルキー
「像」は身分が低いぞ という事になるだけ。
大事なのは、「レハー(あなたのために)造るな。」
「~のために」は、
前置詞レ が、「つくる目的」があなたの為になら、誰かの為に作るのは、造るのは、いいと考えられる。仕事ならまず問題ない。
あるいは「あなたのために」が「あなたが罰せられない為に」 であるなら、「罰則は十戒を守る者としての分の慈しみを受けられない。」だ。
 
Q3:十戒の6番目で、殺すな とあるのに、コシェルも至聖所も日本に無いのに、脂肪と食品を食べていいのでしょうか?
とか質問されたとしても、私は聖書に基づいて説明できる。
 
けがれについて
A:「コレヘト(伝道者)の言葉」に、人が動物(昔の訳では獣)である事を思い知る事になる。という言葉がある。
つまり人間も動物なのだ。
では、「汚れていない動物」とはどんな動物であろうか? 反芻し、ひづめが二つに分かれている動物だ。
豚はひづめが二つに分かれているが、「反芻しないから」汚れているらしい。
では、人間は?
人間はひづめが二つに分かれているか?
「人間は汚れた動物」だから、何を食べても、死骸を食べても、何に触っても、これ以上汚れないのだ。「そうです」
 
では脂肪は?
 
 
脂肪について
 
脂肪分が「含まれていない」食品を紹介しよう。
砂糖

こんにゃく
(カロリー0表記の製品は、必ずしも完全に0とは限らない。)
この3つ。
律法をまもりなさい=死ね って?
 
逆に、
脂肪分が「含まれる」聖書中の食品例
種無しパン
種ありパン


煮たパサパサの肉
 
では、
律法に書いてある「食べていい食品」とか、
キリストが復活後に弟子達に「朝の食事をしなさい。」と命令形で言った食品に、
脂肪は含まれているか?
実は含まれている。
 
モーセ五書(トーラー)を書いたとされるモシェ(モーセ)やキリストだって、魚を食べた。種無しパンを食べた。
 
脂肪分を含むものを「食べている」のだ。
見習って食べたらいい。
食べていいから食べてるんだ。
 
 
新約聖書に基づいて脂肪を食べていい説明
脂肪は神のもの。
では新約聖書の(「霊によって書かれた」と書いてある)弟子の記述において、神とは何?
神=舌(火)。
脂肪は神のもの。神である舌(火)に捧げたらいい。全部受け取る神がどこにいる?捧げるだけでいい。(舌そのものが食べなくても舌には触れても飲み込むのは我々でいいという意味。)
 
 
偶像に捧げられたものについて
 
A:1コリント10章25節~27節
10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。
10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
 
相手の良心の為に食べない とある。「ちがう」
キリストが言い出した事ではなく、ペテロが幻(夢)で、「鳥を屠って食べなさい。」と言われたのに食べなかった。起きたペテロは、何故か偶像に捧げられた肉は食べない事にした。ペテロが決めたと私は考えている。
 
何でも食べなさい。 と命令形で書いてある。霊によって書かれたという聖書に。
もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。と書いてある。不思議な文だ。
こちらの律法による良心?を押し付けて 相手に不思議に思わせるような感じの文だ。
 
実は、
 
日本語訳「偶像に供えられている肉です」

原文「イエロスウトン(神聖なものとして捧げられたもの)である」
 
どこにも偶像や肉なんて言葉は見当たらない。固有名詞ならその「神聖なもの」が偶像なのかもだけど、形容詞だ。
これは原文では、
「彼らにとって神聖」だから、「彼らの良心の為に食べない」のだ。彼らの大事なものを大事にする為に。
これは日本語訳のあり方が間違っている気がする。
 
これはたとえば「ギリシャの彫刻や仏像は偶像じゃないか!壊せ!」といった自分勝手な思想とは全く逆の、
「相手が大事にしているものを守れ」という思想だ。
 
パウロは、ある航海で船が嵐にみまわれて航路に戻れなかった。船員は絶望で食べられなかった。
そこでパウロは船員に食事をする事をすすめる。船員は食べて元気になり、船は港に着いた。
あんなに律法に厳しいパウロが、みんなを元気付け、食べる事をすすめている。
 
エスの試練のときのイエスの言葉
「ひとはパンによって生きるのではない。神の言葉一つ一つのよって生きるのである。」
この言葉をストイックな断食を奨励する言葉と勘違いしてはいけない。
キリストはパンを裂いて食べてるでしょ?
食べるのは「生物にとって当たり前の事」であって、神は食料が必要な事はご存知。
キリストが家に帰ったらパンはある。
キリストはパンが欲しいんじゃない。
「キリストが、このとき、求めていたもの」が、「パンではなかった」だけだ。
キリストには「パンよりも欲しいものがある」という意味だ。それが神の言葉だったのだ。
 
 
 
仏教も少しだけ説明しよう。
大乗仏教はそんなにストイックじゃないから心配ないけどね。
仏陀が感謝した料理は二つある。
スジャータの乳粥 (悟りへ)
チュンダの料理 (涅槃へ)
 
スジャータの乳粥によって食べる事の重要性を知った仏陀は、そのあとついに悟りを開いた。
集中力を持続させる為に食べる。
 
無益な殺生をしない為に、精進料理がある。
精進料理は植物の死骸を(植物は死骸とは言わないが、生物である植物を殺して)食べる料理。
私はいろんな宗教の「動物は殺してはいけないが、植物は殺してもいい」という差別意識が気に入らない。
そもそも食べる事は無益じゃない。
 
涅槃に至った仏陀が感謝したチュンダの料理とは、二つ説があって、
一つは「きのこ料理」
一つは「豚料理」
だという。
殺して食べるから食事なのだが、「豚料理」は?精進料理じゃないよね?
それを食後下痢になった仏陀は、「感謝した」。
 
 
仏陀が教えている重要な事は、戒をまもるにしても、「執着しない事」。
その為、仏陀は阿難陀(アーナンダ)に 「細かい戒については廃止してもよい。」と言ったのだ。
 
 
 
これらが、ファティマ(離乳させるもの)の邪眼+千手千眼の一を持つ者の言いたい事だ。
 
イスラム教のクルアーンコーラン)には見つけてない。原文を読んだ事が無い。
豚を食べられないなんて、イスラム教徒はいったい何をまもっているのだろう?
酒を飲まないなんて、ナジル人だろうか?それとも仏教徒