死について
仏教には、
自分の幼子が死んだ事が悲しくて、「子供を生き返らせる薬が欲しい」と嘆願する女性(キサー・ゴータミー)に、
仏陀は、
「よろしい。街に行って、「これまで死者を出した事の無い家(家系)」を探して、そこから芥子の粒を貰ってきなさい。」
女性は勇んで飛び出して行ったが、何軒訪れても、死者を出した事の無い家(家系)は無かった。
そして女性は自分だけじゃないんだという事に気付いて、出家し、仏弟子となった。
という教えがある。
家って書くと新築の家とかあるしね。
仏陀は突き放すようでいて、「自分で気付かせる」というやり方をよく行う。適切な方法で。
キリスト教では、
キリスト「私を信じるものは死ぬ事は無い!」
キリスト「私を信じるものは死んでも生きる!」
どっちやねん。
殉教者達(聖人達)は死んでいった。「この不信の者ども」とでも言われるだろうか?
キリストは信者が自分を裏切るのを前提で信者にしているから、誰でも死ぬ事は立証済みだ。
キリストを裏切らない事ができないシステムに身体がなっているのだから。
正しい律法に殺されるのだ。聖書に書いてある。愛する愛が無い状態に殺されてしまう と。
守れない律法を掲げる神が悪い。神の律法は神にお返ししなさい。どんな大罪者がうまれるか。
ひとびとは懺悔でケアするもの。すべてゆるされていると信じるもの。多様だ。
丈夫なものはなんでも気にせず食べられるが、弱いものは食べられない。
すべてゆるされると純粋に信じているものは何もこわくないが、神をおそれるものはおそれたとおりに神は行う。
期待を裏切らないという事か。
老いてまだ信じているから私は死なないだろうと思えている元気なひとはまだ死なないだろう。
信じる事もかなわなくなるぐらい弱った老人や病人は、気力上、死ぬ事は無い と思い続けられない。
死から逃れられるものなどいないのだ。
「死ぬのが早いか遅いか」だけの話なのだ。生きている誰もがだ。
過去の神話の不死身の英雄達も、この世界にまだいるのかって、いない。誰も見ない。
120歳まで生きられないのは罪作りだからか?幼児殉教者は何故殉教者と呼ばれるか。
「記憶が苦しみになっている」程度ならまだ若い証拠だ。
なんでも、自分の苦しんだ事でも、笑いにできるくらい生きたら、大往生なのだ。
関西人ならわかってるだろうけど、自分の苦しみはなんでもネタになるから。
「も!なんでやねん!!」みたいな事があっても、あとでネタにできる。
それをきれいに特別にしておきたいと思ってとどめて置くから心が割れるように痛いのだ。
すべてのものは流れているのです。それを塞き止めるからしんどいのです。
流れるからきれいになるのです。