fatimariaの日記

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洗礼の話、運命の話。

調子悪くなってきたが…治りつつある。
「何回ゆーても何回ゆーても なるほど 何回ゆーても何回ゆーても そーですか」
「何回ゆーても惜しかった 何回ゆーたかて惜しかった 惜しかった(繰り返し)」
「何回ゆーたかておとうさんが」私はおとうさんでもある。
私は、私で、おとうさんで、おかあさんで、父さんで、母さんだ。
 
いつも話題に出てくる かあさん というのは、私の戸籍上の母の事だ。実母。肉体の母。
「なんべんゆーても(繰り返し) かあさんがかあさんがかあさんが ちょっと待ちなさい」
私がちょっと待ちなさい?「そうです」
何について?「かあさんゆーても(繰り返し)」
継母が何をしてくれた?自分が母としたいものを、母とすればいい。
でも私は、私で、おとうさんで、おかあさんで、父さんで、母さんだ。
「なんべんゆーたらわかる」「ちょっと待ってくれよ…」
息子でもある。
私は、私で、おとうさんで、おかあさんで、父さんで、母さんで、息子だ。
間違って無いぞ。
 
たとえば洗礼受けるとき、誰が名前つける?
ゴッドファーザーと、ゴッドマザーだよね?
じゃあ自分で名前(ホーリーネーム)つけたら?
ね?
あづまは吾妻(あがつま、我妻、わがつま)だから、
私は私の妻です。私は私のお母さんです。私は私のお父さんです。私は私の息子です。私は私です。
 
新しいプロテスタントだとこういう事ができるのです。
伝統ある(古い)プロテスタントだとできないかも。
伝統あるプロテスタントとか、伝統ある古い歌舞伎みたいなもんだ。今から見たら全然歌舞いてない。古過ぎて意味不明。歌える若手ダンサーの方がよっぽど歌舞いてる。
歌舞伎って新しい事で魅せてきたはずなのに、形式ばってしまったら、もう時代遅れなんだよね。
お話の内容とかも若い子全然知らないし。
よしもと新喜劇の方がよっぽどわかりやすい。昔はレベルで言えば同じくらいだったはずなのに。わざわざ形式ばって演技を難しくして、演技者の力量のベクトルが完璧な演技に向けられている。アドリブの方が難しいんだ。
キリスト教の救いはひとりひとりオーダーメイドなのだ。
マニュアルどおりの「ケースCだ。」とかじゃないんだ。そんな臨機応変のマニュアル制御じゃない。
オーダーメイドシステムが全部計画通り決められている。あらゆる有機物、あらゆる無機物、全部。
因果律を変えてしまおうという試みを誰かがする事も決められている。どれぐらいの比率で歪むかも決められている。因果律は観測してどうなるものではないからだ。もともと歪んだり直ったりしている状態が普段の状態なのだ。
因果律を歪めてやったと思っているものは、自分に残されているもの(カード)を考えてみた方がいい。
 
私(運命)を使えば「同じ事をするひと」が増える。質は高くなるかわりにオリジナリティは低下していく。
似たようなものが増えてきて、大型古代生物が絶滅した理由の状況に似てくる。餌(顧客)が減るのだ。
吸血鬼が生物として絶滅に向かう種族である理由だ。暴利を貪る者は餌(顧客)との共存を考えないからだ。
黒に住まうものは日光に当たると自分が塵である事に気付く。あるいは気付かない。
 
決まっている閉塞感から抜け出そうとしてひとびとが自暴自棄になる事もとっくに決められている。
「運命や呪いに逆らって、その摩擦でどれだけ老いるか」も決まっている。
何かを諦めて運命に従えばとても足取りは軽くなる。それが下向きだと思っているひとがネガティヴなひとだ。
「諦めない。」と決めて達成したならその事も決まっていた事だ。
 
神がお決めになる。
神はすでにご存知。
の2点からも、
「過去の、現在の、未来の、運命はすでに決まっていて変えられない。」という見解だ。
 
カソリックは自分の意志の力で未来は変わるという見解だ。
失敗したら自己責任。失敗の悔しさと罪の罰は自分が受ける事になってしまう。それではキリストが磔刑を受けた意味が無い。
確かに自分の意志の力で未来は明るくなるように感じる。気の流れがそう感じる。充実感がそこにある。
しかし、自分の意志も、自分がどう考えるかも、結果も、神がお決めになっている事であって、未来が明るくなる事も決められている事なのだ。それから外れようとすると強制力で戻されてしまう。呪いが重くなる状態だ。
未来が明るくなるという決められた未来もある事を知るべきだ。運命が必ずしも下向きじゃないという事を。
 
たとえば性同一性障害とかいう先天的な事は、自分の意志や意思でどうにかなる問題ではない。むしろ開き直って身体の性が合っていないという事を受け入れてから、どう生きたらいいか考えて生きて行く方が前向きで無駄が無い。自分を受け入れると自分を自然の一部に感じられるようになってくる。
 
 
「洗礼者があづまに洗礼を授けた」なら、「洗礼者は洗礼者の妻に霊を降ろしただけ」であって、私に霊を降ろしたわけではないのだ。私は洗礼者の妻ではなく、あづま(私の妻) なのだから。あずまかもしれないけど。
 
 
洗礼、沐浴の水はコキュートス(あとで調べたがコキュートスではなくステュクスのようだ)の水で、全身洗礼はアキレウスがかかとを持たれたまま浸されていたのと同じ効果だ。頭を持たれて全身洗礼されたなら、頭が弱点だ。ここには無敵が及ばない。手を放されていったん全部浸されたなら、無敵だ。
聖水をかけるように洗礼を受けた(たとえば指に含んだ水をかけられたとか)なら、そのかかった部分が無敵になる。
どんな洗礼でも全身は清くなる。けがれたものが触っただけでけがれるなら、水に触っただけで清くなる。どの部分であろうと。
これは「漏出のけがれがあったものが、全身を水に浸すと「夕方まで」けがれている。」という聖書の記述から伺える。
全身を水に浸したら夕方まで待たなくてもその場で清くなるものじゃないの?と普通思う。
これは「水が清くしているのではなくて」、「全身を水に浸すという行為が清くする」からだ。聖書に回数制限など書いてない。
水分に触れた人間は清くなる。
洗礼は一つ だから洗うのは一回だ と思っているひとは原文を読んだ方がいい。
 
何回でも洗える。
 
主は一つ
信仰は一つ
洗礼は一つ と言われている部分は、
 
エフェソの信徒への手紙 4章5節
 
主(キュリオス。男性形)はエイス(男性形の1)。
信仰(ピスティス。女性形)はミア(女性形の1)。
洗礼(バプティスマ。中性形)はエン(中性形の1)。
 
と書いてある。
 
エンとは球体のような状態。
 
エイス(~へ。男性形)とはそのエンに入り込んで出ない状態を表す。なので入る前は男性形。これは中性に男性器が入っていく状態から中性になる状態。
 
ディア(無性形)とはエンを貫通して出て行く方向性(ベクトル)を表す。エン(1)に留まらない。
(エンの)中から出るという事で、人ならけがれているという解釈もできる。
でもディアは人(男性)ではない(性属性が無い)ので、エンから出てもけがれない。
 
このベクトル完了が起こると、中性形と女性形と無性形だけになるのだ。
エイス(主)はどんどんエンに入って行く。オリジナリティを保てない。
 
中性は男女中間の性だ。
中性は、男女どちらの性も持っていない、男女の性のどちらの中間も持っている全く別の性。ヒゲの生えるふたなり(両性)でもない。
ふたなりは男性ホルモンも女性ホルモンも高いので、乳房も発達するし、そのうちヒゲが生えてくる。
父なる神とキリストが中性のエンだ。
そのエン(洗礼)をディアが貫通する。という図式。
ディアは無性形なので生殖器を持っていない。ディアボロスの投げる投擲具だからだ。刺し貫くもの。クァインもこれにあたるかと思うが、クァインは男性形だ。
 
エンは洗礼の塊なのだ。
ディアはその洗礼に入ったら出る。出たら洗われている。
主(エイス。男性形)は洗礼に入ったら洗礼から出ない。出たらek(エク。無性形。~から、~によって、~で)となる。主はエン(洗礼)から出たら去勢されるのだ。
エン(洗礼)は去勢マシーンなのだ。エンに留まっている間は中性でいられる。←キリスト「私に繋がっていなさい。」