ファティマは尽くすタイプだから、誰かを補佐する方が合ってるんだ。
何故私がリードできようか。
状態を分析して提示し、決定をしてもらう。依頼心というより、「指示待ち族」なんだよね。そういうところは犬タイプなんだろうけど、性格は猫タイプなので、
指示されるまで待ってるけど、指示されると不満で言う事を聞かない。駄目じゃん!
何かしてあげたいひとをこっちで勝手に見つけては全力で何かをしてあげようとする性質がある。
見つからない場合は全然やる気が無い。
昔はよく盲目的にやってしまって相手の重荷になっていたようだ。なんか尽くし方が段々こわいらしい。
ので、調子のいいやつに利用されかねない危険性があるけど、私は本能的にチャラいやつが好きじゃない。辛気臭いやつも好きじゃないけど。
私はニヤニヤ顔(つまり裏がある)は不快だけど、笑顔や微笑みが好きなので、
辛気臭いひとは精神的に疲れるのだ。顔見てるだけで疲れる。
チャラいやつってのは自分の得する事に関しては要領がいいので、ほっといても問題ないのだ。
真面目なひとは損な性格だよね。でも性格だから仕方ない。「けいおん!!」の修学旅行での澪を見ているとよくわかる。トラブルメーカーに疲れる毎日。トラブルを楽しめない性格なんだよ。思い通りでないと不満なんだ。
じゃあ私はどんなひとに尽くそうとしてしまうかというと、
意志薄弱で、たよりない、低反発で、優しそうなひと。
ついほっとけないのだ。自分の意志で制御するのは難しい状態におちいっている。
しっかりしているひと、ちゃっかりしているひとには発動しない。
だから けいおん のあずにゃんとか澪とか真面目でしっかりしているタイプに何故か魅力を感じないのだ。辛そうな顔を見たくない。むぎちゃんは優しくてもわりと積極的だし、眉毛も太いので、これまた魅力を感じない。
ちょっかい出しすぎて重荷になってしまう事もよくある。私がトラブルメーカーになってしまっているのだ。
尽くすけど私はリードするタイプではない。相手もイベントを持ってきてくれるタイプでないと続かない。私は「あれ!?重荷かな!?」と思ったらすぐ引く。相手はそれが急激なので困惑する。
突然やってきて突然去っていく台風のようなのだ。
FF8のラグナの歌手と話するシーンを思い出す。自分ばっかりしゃべってしまうのだ。
普段は受身の聞くタイプなのに、そういう意志薄弱な低反発なひとにひっかかると、つい自分ばっかりしゃべってしまう。相手にリアクションがあまりないので、私は「(吸われている。)」と思って不安になる。
というわけで、私が尽くしたいような魅力を感じるひとと私とは、あんまり性格が合わないのだ。
いつも全力でいつまでも もつ わけない。
付き合いってのはもっと長いものだ。
当たり前だけど、向こうが好きになるか、こちらが好きになるか無いと、恋愛ははじまらない。
最近私は精神病患者である事、ヘルニアである事、経済力が無い事など、
様々な理由で「こちらから」を必ず止める。不自然でも完璧に止める。
そんな様々な理由をわかっていながら、「それでも」という奇特なひとは、こんなご時勢にいるわけない。
私が相手の負担になる事はわかっているからだ。負担とは思わないから「それでも」なんだろうけどね。
「こちらから」を完璧に止めているので、たよりない低反発の優しそうなひとを見ても、はじまったりしない。
最近は何もやる気ない。ダラダラ過ごしてるだけ。
他人の為なら全力になれるのに、自分の為だと全然やる気になれないんだよね。
精神病の症状が強く出てたから、被災地にボランティアにも行かなかったし。正常なら行きたかったな。
まあ正常なら就職活動の方を優先しないといけなかっただろうけど。
ボランティアは自分の生活(経済力)があってできるものだと思うから。
分析はできるのに企画は苦手なんだよね。この病気特有の、全体を管理する能力がない。
かあさんとかは軍で言えば軍師タイプだから、高い所で全体を見渡すのがすきらしい。私は高いところすくんで無理だけど、かあさんは高いところウキウキするんだって。
私は短期決戦型+長い時間ダラダラ型だから、長い間ひとと関係を続けるのって難しいんだよね。
美しい者しかそばにおきたくないけど、他が美しいと嫉妬してしまうだろうし、
自分が美しかったら一番いいんだけどね。そしたら排他的ナルシストになりそうだし。
なんで…人間は完璧に一人で生きて行く事のできない生き物なんだろう?
外に出たらひとがいるし、親がいないと産まれないし、家や衣服や食料だってひとが関わらないと手に入らない。
それが苦痛なんだよね。
いばらとあざみの特徴は、「とげ」。とげに触れると痛いのだ。痛いものを置いている。善悪の知識の実を、わざわざエデンに置いておいた理由は?普通、上のものが責任を取る。神々も同じだ。
「善悪の知識の木と実を、人間の手の届く所に放置しておいたのは、私達の不徳の致す所です。責任を取って自害致します。」
って神々は言えばいい。
いと高きものの子ら(神々)は人(アダム)のように死に、君主達(王子達)のように倒れる。
死ぬより苦しい事がある。
苦い記憶、失敗した記憶、痛みの記憶、悲しみの記憶、遂げられなかった記憶、恐怖の記憶、恥ずかしい記憶、屈辱の記憶、憎しみの記憶だ。
記憶は過去が所有している。
永遠は記憶を背負って行く。どんどん増える。
儚いもの達はその義務がない。
解決方法として、記憶の消去がある。
しかし消えても、「過去がどうであったか。私は誰であるか。」という欠けた過去を追い求めて惹かれる依存が発生する。
結局背負っているのだ。でも他人事みたいだから、苦痛は少ないよね。
「死にたい」と思うひとは、記憶や環境が、「現在」の状態より、「死んだ未来の方が楽」だと、思っているからなんだよね。(ここで言っている環境というのは、自分の痛みや不自由さも含んでいる。)
記憶で死にたいと思っているひとは記憶を失ったら過去を追い求めるようになるだろうし、
環境で死にたいと思っているひとは環境が変わったらトラウマがあるだろうから、以前とは違う方を選んでしまう。やっぱり依存しているのだ。
我々は過去を追い求めたりするだろうか。
私はやってみた。自分の年代を書いてみて、いつ、何があったか、思いつく限り書いた。とうさんかあさんに手帳を調べてもらい、私の過去のいろんな事を調べた。
私は私が好きだったのだ。他の誰かが見つからないから、一番付き合いの長い「自分」が好きだった。
でも母は引越しのときに母子手帳を棄てた。私の出生時刻の「何分か」、は、もう二度とわからないのだ。
あとで知ってショックだった。これから永遠にわかる事はない情報なのだ。自分の出生の事なのに…。母に好きな人を奪われた気分だった。
とうさんかあさんが誰なのかわからないひとは、私よりもっとモヤモヤしたものを抱えているのだろう。
そして、私の過去が詳細に書いてあったファイルの入ったHDが、壊れてしまった…。
この空虚感はなんだろう?私を失った気分だ。私が恋人である私に突然死なれて失恋したような気分だ。
「私の現在」には私の過去の覚えている部分や紙媒体の資料しか残っていない。
私が、私と過ごした「記憶の部分」しか残ってないのだ。
私の覚えている遠い記憶のどんな小さな事でも書いていたのに…。
アニメ「ef」を思い出す。
はぁ…やる気なくなったな…。
過去に失恋したとき、私はどう整理したのだろう?
でも、そんなんじゃないんだよね。
私には私しか居ないのに…。一番付き合いの長い、特別な存在なのに…。
嫌いで、好きな人は、私自身しか居ないのに。
はぁ…。
こんなに一人の人物について調べたのは自分自身の事だけだったのに。
宗教についてもいろいろ調べたよ。でも彼らが恋愛対象になってくれるわけないだろうし…、目の前に、傍に居るわけではないものね。いつも傍に居て支えてくれるのは、自分自身だけ…。幻聴は見えないし、幻視はいつも見えるわけじゃないし、支えにはならない。
でも一部を失った今、空虚感でやる気が起こらない。
みんな…私自身でさえ、消えて行く、失う、去って行く。
好きな人も居たけど、過去の事で、もう現れてない。長い事会っていないし、会う機会もない。
もう今私に好きな人は居ません。嫌いな人も居ません。そんな人、もう現れないかもね。
なんか何もかもどーでもいいかも。
誰が死のうが、私が死のうが、誰が苦しもうが、私が苦しもうが、なんかもうやる気ない。
傍に居てくれるだけで…っていう人なんて、どこにも見当たらない。
自分の事では全力になれない と言ったのは、自分の過去を調べる事以外の事だ。
たとえば自分の為に自分のスキルを磨くとか、自分の為の勉強をするとか。全力にはなれない。
他の人の為なら短期決戦型に全力になれる。「自分にできる事」を全力でサーチして、やろうとする。
感謝されたいとか、ほめられたいとか、じゃない。
私のする事で相手が心から喜んでいる顔が見たいだけだ。それを見ただけで満たされるだろう。私はそれ無しでは生きられない。私のする事で心から喜んでくれる者無しでは。笑い者とかじゃなくてね。
漫画「あたしんち」のみかんみたいな感じ。やってちょうだいと言われるとやりたくなくて、自分からやった事が喜ばれるのが嬉しい。
「してもらって当然」のひと、「私のする事が重荷や迷惑になるひと」、「利用してやろうと企むひと」、には、魅力を感じないのだ。すぐボロが出る。
喜んでいる顔も、演技では私は気付いてしまう。私は表面的なやりとりや表面的な言葉よりも、気の流れでそのひとの内面を感じ取る。
ひとのしゃべる言葉は、「何が言いたいか」は聞こえなくて、
言葉の意味の裏にある「欲望や意図」「微妙な雰囲気」だけを肌で感じているのだ。
たとえば誰かが怒っていたら、
「何故怒っているか(怒る理由)」「何を言いたいか」「自分に何を求めているか」は頭に入らなくて、
「どう怒っているか」「どれぐらい怒っているか」「怒る理由の裏に隠された感情と欲望と意図の気」しか肌で感じ取れず、他は頭に入らない。怒られながら分析しているのだ。
結局、そのときの雰囲気を忘れて、「何故感情的に怒ってたんだろう?」「なんか怒ってたな。」という事になる。
怒っていたら言葉は正確ではないのだ。
冷静に要点だけ何度も伝えた方が私にはわかりやすいからだ。
怒気やイライラやため息があると怒気やイライラやため息だけに注目してしまう。
表面的にどうであろうと、押し隠した感情や欲望や意図は、逆に全部漏れている。我慢していても我慢している事に気付く。そちらの方をすぐ気付いてしまう。なんて言うか…「気の流れ」としか言い方を知らない。呼吸を止めても、止めた変化に気付いてしまう。
でも大体のひとは気付いたそれを指摘すると、怒ったり、気分を損ねたり、動揺したり、忙しくしてみたり、誤魔化したりして、いい反応は返ってこない。自分がむき出しの裸に感じて、自分をまもりたくなるのだろう。
この反応は「対人関係の壁」が作られた瞬間なのだ。
付き合いの長さの問題もあるだろうけど、少なくとも私を受け入れてくれるひとではない。
私はそうやって他人を常に分析して、自分しか信じられなくなっている。
だから私はだいたいとぼける事にしている。自分を騙すのだ。でもそんなのは一時的な事だ。結局事は大きくなる。
他人はそういう事を聞くと、息が詰まって安心できないので、私と居たくない ようになってしまうのだ。
漆器の扱いが面倒なので、プラスチックやステンレスを選ぶようなものだ。
私も絹やカシミヤの扱いが面倒なので、綿100%とかを買ってしまう。持ち物にステンレスも多い。眼鏡もチタン製とかになってくる。
ラスボスは打たれ強いものだ。
前は自分が好きでも嫌いでもあったのに、最近自分を好きでも嫌いでもなくなった。
私は私という人物に興味が無くなったのだ。
飽きたとでも言うのだろうか。調べては楽しんでいた頃が嘘のようだ。
私自身だけでも残しておいてくれたら、私はまた空虚感を彷徨う事は無かったのに。
どこへ行けばいいのだ。どこにも見当たらない。
私には私さえ残っていない。私は私を殺そうとしたくらいだものね。私に私は相応しくない。