fatimariaの日記

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雷鳴ってたので、ヨブ記を見ていて。

新共同訳聖書 ヨブ記15章
: 1 テマン人エリファズは答えた。
~略~
:11 神の慰めなどは取るに足らない
優しい言葉は役に立たない、というのか。
なぜ、あなたは取り乱すのか。
なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか。
神に向かって憤りを返し
そんな言葉を口に出すとは何事か。
どうして、人が清くありえよう。
どうして、女から生まれた者が
正しくありえよう。
神は聖なる人々をも信頼なさらず
天すら、神の目には清くない。
まして人間は、水を飲むように不正を飲む者
憎むべき汚れた者なのだ。
~略~
16章
: 1 ヨブは答えた。
そんな事を聞くのはもうたくさんだ。
あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。
「無駄口をやめよ」とか
「何にいらだって
そんな答えをするのか」と言う。
わたしがあなたたちの立場にあったならそのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし
唇を動かすことをやめなかっただろうか。
語っても苦しみはやまず
黙っていても、それは去りません。
もう、わたしは疲れ果てました。
~略~
: 9 神がわたしを餌食として、怒りを表されたので
敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。
彼らは大口を開けて嘲笑い
頬を打って侮辱し
一団となってわたしに向かって来る。
神は悪を行う者にわたしを引き渡し
神に逆らう者の手に任された。
平穏に暮らしていた私を神は打ち砕き
首を押さえて打ち据え
的として立て
弓を射る者に包囲させられた。
彼らは容赦なく、わたしのはらわたを射抜き
胆汁は地に流れ出た。
神は戦士のように挑みかかり
私を打ち破り、なお打ち破る。
私は粗布を肌に縫い付け
わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。
泣きはらした顔は赤く
死の闇がまぶたのくまどりとなった。
わたしの手には不法もなく
わたしの祈りは清かったのに。
~略~
:22 僅かな年月がたてば
わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。
17章
: 1
息は絶え、人生の日は尽きる。
わたしには墓があるばかり。
人々はなお、わたしを嘲り
わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。
~略~
: 5 「利益のために友を裏切れば
子孫の目がつぶれる。」
この格言はわたしのことだと人は言う。
わたしは顔につばき(唾)される者。
~略~
わたしの人生は過ぎ去り
わたしの計画も心の願いも失われた。
夜は昼となり
暗黒の後に光が近づくと人は言うが
わたしは陰府に自分のための家を求め
その暗黒に寝床を整えた。
墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い
蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。
どこになお、わたしの希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
それはことごとく陰府に落ちた。
すべては塵の上に横たわっている。
 
 
不幸と病気などに絶望するヨブに、まわりのものは脅しで神に立ち返らせて導こうとする。
ヨブにはそれが「不幸だけでなくみんなが言葉でわたしを苦しめている。神がわたしを苦しめる罠をはっている。」という風にしか受け取っていない。
ヨブにそんな言葉は要らない。
自分の病気を治すものと、不幸を取り除いて実質幸福に立ち直らせてくれる方が居ればそれでいいのだ。
ヨブの不幸は主がサタンに命令された事なのだから、ヨブはそれを受け入れて、憤り、それでもなお神を讃えている。
 
私も、
嘲り(笑う)、苦しめ(歪んでいる)、批判し(自分の方が正しいから受け入れろ)、文句を言い(今のままでは満足ができない)、そういう事しか人間はできないのだと、思っている。
実際、人間が神にお願いするのは、批判であり、文句であり、不満であり、愚痴であり、欲望であり…。
人間は、他人が苦しむ姿、努力する姿を見ると安心し、よろこぶ。
これは不健康に言えば、サドなのだ。
他人が苦しむ姿を見て自分も苦しいのは、自他境界線の無視だ。
他人が苦しむ姿を見て何も感じないのは冷酷なやつだ。ひとの心がない。
じゃあどれであっても批判の対象なのだ。
わたしはどれも好きじゃないから→人間が好きじゃない。になる。
人間にもいいところはあるんだと言うだろうか?
 
誰にでもいいところはあるだろう。私にはいつもそれが見えるようで見えていない。
 
私は、努力して、背伸びして、無理をして、他人のいいところを見つけて、自分の嗜好と異なるけど、譲歩して評価する。ほめる。
他人が日常の普通にできている事が、私にとっては人間に気を使う事に常に努力して、背伸びして、無理をしているので、心無いひとの主張たったひとつで、ダークに、攻撃的に、豹変する。
 
 
人間を好きになりたいのでなければ、憤慨したりしない。
人間を好きになれない言動を人間がするから、憤慨するのだ。怒るのだ。
 
 
ひとは寂しくなるだろうとか、勝手に思ってお節介をしてくる。当然私にはストレスになる。
疲れるんだ。人間と接していると。
ひとりで居ると寂しくていられないからひとと居るというひとの気持ちが私にはよくわからない。
とうさんとかあさんがまだ生きてるからだろう。
そして他の人の迷惑になるからと思って、誰も頼らないだろう。
昔はよく頼ったものだ。あちこちに先生を作って渡り歩いたものだ。
迷惑だなんて思わないひともいるんだよ と、かあさんは言っていたけど、
ほんとに寂しい状況になっても、私は寂しい状況を受け入れてしぼむだけだろう。なんとかしようとは思わないだろう。人間が心底好きじゃないんだ。
 
ひとが
笑うなら 嘲笑っている じゃあ一緒に居ない方が精神衛生上いいね。
怒ってるなら 私とは合わないらしい じゃあ一緒に居ない方が双方の精神衛生上いいね。
悲しそうなら 私と居るのがしんどいらしい 暗い じゃあ一緒に居ない方が双方の精神衛生上いいね。
無表情なら 何考えてるかわからない 私とは合わないらしい。つまらないらしい。じゃあ一緒に居ない方が双方の精神衛生上いいね。
 
上の結論から、嘲笑うやつが嘲笑うやつの精神衛生の為に残っている。と思っている。
ひとが笑う度に、誰かが誰かを嘲笑っている。そういう風にしか受け取ってない。
 
私の心の傷は深い。そんな簡単に、そんな短期間で治るものじゃない。
心の傷の方が、身体的な傷より全治に時間が必要になるだろう。全治しないかもだ。