キリストといちじくの木の話が新約聖書に載っている。
マタイ21:19〜
マルコ11:13いちじくの季節でなかったからである。
ルカ13:6
ルカ21:29キリストはいちじくの季節をご存知
黙示録6:13
実をつける時期でないときに、
ジャストタイムに空腹のキリストに差し上げられる実をつけていなかったというだけで、
枯らされたいちじくの木。
キリストはパンきれを増やす事は出来たけど、
パンを生み出す事は出来なかったからだ。
キリストの能力はコピーと癒しの能力?
これはキリスト教の奇跡の限界をきっちり示している。
用意出来なかっただけで枯らされる。
この枯らされる木の奇跡は、
奇跡について誤解している世界のひとびとに危機感を感じさせる。
「都合のいい奇跡のみが奇跡だと思っている誤解」
だ。
これは現世御利益こそが神のあり方だという思想の日本じんは、キリスト教に大変な誤解をしている。
日本じんの多くは、
ユダヤ教のエロヒーム(直訳すると「呪い達」)や、
キリスト教は、
罪と罰の呪いの宗教である事を理解してない。
どれだけの苦しみと憎しみのストレスによって輝いている宗教であるか理解してない。
この枯らされたいちじくの木の一件からキリストはいちじくを憎んでいる様子が新約聖書からうかがえる。
食い物のうらみはおそろしい。
これはいちじくにたとえられているだけで、
人間の行いについても言える。
キリストが蒔いた種(教え)を実らせない木は切り倒されるのだ。
食べ物を実らせる木は食べ物を要求される。
他の種類の木にはそれぞれの種類に合った特性を要求されるのだ。
しかしキリストはいちじくの季節をご存知でいちじくの実がなる時期ではないのに、
キリストが空腹であったときに実をつけていなかったというだけで、
「枯らされた」のだ。
これは結構理不尽な要求だ。
神様なら備えておくのが正当だ。
しかし食べ物を備えていない事も奇跡になっているのだ。
枯らされるという被害を受ける奇跡となっている。
これが拡大解釈されると、
新約聖書でとんでもない無理難題ふっかけられているのに出来ないから枯らされたという、
「理不尽な要求」と
「出来なかった罰の呪いの奇跡」について、
キリスト教も「障らぬ神に祟り無し」に相当する宗教だという事が気付けるだろうか?
新約聖書では
普通の人間の日常生活では不可能な事を要求している事に気付いただろうか?
特にパウロの書簡ではファリサイ派だった?パウロは律法の事細かな事を遵守する誇りが正統なあり方だと思っている節があり、
これをキリストの教えに当てはめて
こうあるべき
という人間に求める理想の事柄をそれはもうたくさんたくさん書いてある。
これを人間が常に守れるかと言えば、
アクシデントもある人間生活において、完璧に守るのはまず無理。
それよりも、
キリストがはじめに目指していた心づかいは、
「イスラエルのひとびとにかけられた律法という呪いからイスラエルのひとびとを解放する」という事。
その志を汲む事だ。
平和に暮らしているユダヤ教徒から律法を奪い去れという事ではなく、
律法によって苦しんでいるひとびとの苦しみの緩和を、キリストは志していたのだ。
ひとはパンによって生くるのではない。神の言葉一つ一つによって生くるのだ。
と言っていたキリストが、
結局、空腹で怒りを発した事も覚えておかないといけない。
(結局かい!)
神が備えてくれなかったのに、
いちじくの木が八つ当たりされたのだ。
民を空腹で放っておくと、ハングリー精神が爆発して反乱が起こる。
食べ物を適切に備えないと、平和は保てないのだ。
ウトウトとしていた。
夢の映像は
男性が吠え泣き叫びながら同じ顔で同じ姿の男性に口を押さえられて拘束されている。
幻聴「録音出来た」
聖書ってのはパンドラの箱だから、
開けると必ず自分や自分のまわりに苦しみや痛みや病気をもたらす。