エゼキエル書4章1節
口語訳
人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。
新改訳
人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。
新共同訳
人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを刻みなさい。
NKJ
"You also,son of man,take a clay tablet and lay it before you,and portray on it a city,Jerusalem.
TEV
God said,"Mortal man,get a brick,put it in front of you,and scratch line on it to represent the city of Jerusalem.
英語訳は、
クレイ(粘土)タブレット(銘板、刻板《銘文を刻んだ石・金属の板;記念碑・床石などにはめ込む》;笠石。メモ帳、便箋。薬の錠剤。薬以外の錠剤、固形剤。コンピューターのタブレット。石鹸・チョコレートなどの1個、1片)
にポートレイ(絵画・写真などで表現する、描く)
あるいは
ブリック(煉瓦。別義で積み木)にスクラッチ(引っかく事)。
私はこの言葉を大学院1年生の頃(西暦2000年頃。21年前頃?)に発見して、
それからは罪悪感無しに絵を描ける。写真も撮れる。
私は手始めにアラム語でエルサレムという文字を全部重ねて字にして、
題「アラミート(アラム語で)」という作品を徳島大学の美術の教官だった平木美鶴教官の授業の提出に出した。意味は伝えなかったが、単位は貰った。
私「私にとって大変意味のある作品です。」
と提出すると、
そのとき平木教官は「あら、お肉ね!って感じだね。」
って軽い感じで言いました…。
エルサレムとは
平和の神(男性形の神。サレムのエル)の事。
平和(サレム)は、
サロメや
ソロモンとも
同語源。
平和は新約聖書ではエイレーネー(平和の女神)と翻訳されている。
しかし、「平和」ではなく、「平和の神」がエルサレムなのだ。
訳す段階で音訳そのままで
イエスが平和の神だと説明する方が、
好感度が高いと考えたからかもだ。
キリストはエルサレムなのだ。
エルサレムを描く事。
イエスを描く事。
キリストを描く事。
人の子(アダムの子。人の息子。男の息子)は「描きなさい」と言われている。
「〜の救世主となるか?」という表現をニュースやテレビ番組や新聞でもよく見聞きする。
これは人間の生活にとって
「非常に役に立つものこそ、救世主」
という考え方だ。
「現世利益こそが神様のあるべき姿」という
「人間中心的な考え方」。
人間のエゴだ。
ひとびとをいい意味で驚かせ、信じさせたからこそ奇跡と呼べるという点ではそうなのだが、
私はこの「〜の救世主となるか?」という表現が気に入らない。
私がどんなに人間のエゴだと心の中で説明しようとも、
人間達は一向にこの表現をやめない。
救世主というのは、
人間を救うのではなく、
「世(キリスト教の神である不正のコスモス、舌、火)を救う主」
であって、
不正の神を不正から救うのが救世主なのだ。
キリストの言葉に、
目には目を、歯には歯をと言われているが私はこう言う。
右の頬を叩かれたなら左の頬も差し出せ。
とある。
これはみんなが曲解してる様な、マゾヒズムではなく、
ハムラビ法典からそのままの、
誰かの目を傷つける者は、目を傷つけられ、
誰かの歯を折る者は、歯を折られる。
やった事は自分にそのまま返って来る。
というハムラビ法典からの律法はそのまま継承した上で、
右の頬を叩かれたなら、
左の頬も差し出して、
叩いた者(害する様に指示した者含む)の罪と罰が重くなる様にしなさい。
という反抗の意志を示しなさい。
という意味だ。
諸刃の剣とは、
相手に与えたダメージは自分にも返るし、
自分の受けたダメージは相手にも返る。
という法則性なのだ。
傷つけてるひとはその法則性に気付いていないか、
忘れてるだけだ。
ゲームで言えばラスボスがHPが高くてタフであればある程、ラスボスらしいという結果になるのだ。
老後の事まで考えてなかったら、
老後に苦労をするよ…。という話。
弱くなってみてはじめて自分のやって来た事がどれだけひとをくるしめたか自分の身に体験して気付く訳だ。全部。
私も痛かった…。
恋愛天邪鬼は、
自分で心に痛い事を言い放ちながら、
更にお返しの痛みが来るのでダブルパンチで苦しむ
(クロスカウンターはどうした?)。
更に自分にもクロスカウンターなので
恋愛天邪鬼が自虐だと自虐で極大ダメージを受けるのだ。
世界である私が人生後ろ向きになると世界が危ないのはそういう理由でもある。