fatimariaの日記

誰からもコメント無いのでコメント停止しました。連絡はメールで。

私が県展で特選をとった時の記事の写真。

ネットで見つけました。全ページは載ってない様です。

私が1992年に徳島県美術展(県展)で特選の更に上、特選の特別賞を戴いた時の図録記事の写真です。

徳島新聞社長賞かと思っていたけど、

県教育長賞だった様です。

大学受験の真っ只中でした。

大阪芸大の受験から徳島に帰って来た足(とうさんの自動車)でそのまま名西高校の傍まで送って貰って(推薦(1期受験?)なのでこの時期の受験。県展の展覧会の開催時期は、審査の作品搬入などのあとです。)、

同じ油絵科の野々瀬みどりさんが居たので手を振って挨拶したら、プイッって怒って行っちゃって、

私は「なんでやろ…?」と思っていた。

教室に行ったら、

クラスメイト達「あずま君おめでとう!」

私「??」

ホームルームで説明された。

そこではじめて受賞した事を教えて貰った。

あとで油絵科の源和昭教諭から言われて、桝田校長に呼ばれていたので校長に挨拶した。

何を言ったかは覚えていない。

あがり症だったので。

野々瀬みどりさんは、

私が徳島新聞の記事を見て自分が賞を取ったのを知っていて優越感で野々瀬さんに挨拶したものと野々瀬さんは思っていたらしく、

うちの家の新聞が当時読売新聞であった事は知らなかったらしく、

そしてその日の私の方は、徳島の新聞やニュース云々よりも、

大阪での大阪芸大美術科の推薦の大学受験で、

デッサンはなんとか描けたけど(デッサン試験はヘロデ・アグリッパの石膏像だったかなぁ…?なんだったっけ?)、

水彩画のバケツを忘れて水彩画を書けずに

私「こりゃ駄目だ…。」と意気消沈して負け犬ムードで、

朝、大阪の伯母の家か奈良のうちの家から、高速道路通って、鳴門から名西高校に直行した事を、

野々瀬さんもクラスメイトも知らなかったらしいです。

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下の絵が「空を見た」という作品です。うちの家の玄関にあります。

人物のモデルは松原隆仁です。

石井町の西の方の川の橋の上で、松原隆仁がポーズとったので、私が写真撮影して、写真を見て絵に起こした油絵(洋画)が、当時徳島県で最高の賞を戴いたのです。

前にある横ラインは、地平線ではなく、吉野川の堤防です。つまり石井町側の南側から北側を見て写真撮ったのです。

そしてこの橋は吉野川に架かってる橋ではなく、

堤防の横辺りの深くの低くに流れていた小川の様です。

今は深くて低いトコなので危ないので、橋の手前の両横に手摺りの柵が作られてるので、この風景はもう無いです。

郷土文化会館とは、今のあわぎんホールの事です。

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源和昭教諭は私の所属していた名西高校油絵科の教諭だった。西洋美術史の教諭でもあった。

 

日本美術史の教諭で、私が選択授業で所属していた美術クラブの教諭の、

名西高校彫刻科の教諭だった鎌田邦宏教諭が当時の私の彼女だった土井真由美ちゃんに抱きついたときに、

土井ちゃんがもがいて逃れようとしていたときの様子が、

私が何度も抱きついたときに逃れようとしていたときの姿と同じだったので、

私は土井ちゃんへの愛情が冷めて、

その鎌田邦宏教諭(あだ名:鎌ちん)と土井ちゃんを放置して去った事がある。

土井真由美ちゃんも美術クラブを選択していた。

選択授業なので土井ちゃんと別れたあとも同じ鎌ちんの授業を受けていた。絵を描くだけの授業だけど。

その事があったのは授業中ではなく、放課後の事だ。

当時真田という俳優の「高校教師」というドラマが流行っており、

高校教師と女子高生の恋愛をドラマにしていた。

そのヒロインの名前が「まゆ」で、

私の当時の彼女が「まゆみ」で、

男子高校生だった私は鬱々としたコンプレックスで暗い思いを持っていた。

松原隆仁は源和昭教諭と土井真由美ちゃんとの恋愛をほのめかして私に精神的にダメージを与えようとしていた。私を揺さぶって楽しんでいた様なのだ。

なので土井真由美ちゃんと付き合っていた頃に

楽しかった思い出とか、無い。

そこに上記の鎌ちんの事が起こったので、

私は土井真由美ちゃんに冷めて、

その事とどちらが先か忘れたけど、夏休みにも一回もアクセスもしなかったし、会わなかった。

それを感じ取ったのか、

土井真由美ちゃんは他の高校の男子高校生?に

おばけのホーリーのぬいぐるみをプレゼントされてご満悦になり、結局私を呼び出して私に別れの手紙を渡して、

私はフラれた。

私はおばけのホーリーに負けたのだ。

うらめし、山に〜♪

ホーリー「魔女リーナ様ぁ〜♪」

トイレットペーパーのおばけ「いやはやとんでもない事であるですぞ。」

土井真由美ちゃんはあとでその男性について、

 

土井真由美ちゃん「大剣を片手でぶん回す私の勇者だと思ったんだもん!!」

私「わかったわかった。」

と言っていた。

 

この「空を見た」の作品は、

1992年9月29日に土井真由美ちゃんと別れた頃の作品だった。

土井真由美ちゃんとは結局セックスどころかキスもした事無かった。

誰ともしてないけど。

高校生の間は、私はまだ17歳。

土井真由美ちゃんが16歳であっても、

私は結婚出来ない年齢なので、セックスは違法だ。

なので私は彼女であろうと、ストイックに土井真由美ちゃんと性的な事はしなかった。

基本的に「インドア派のゲームお宅」だった私は当時「男性としてコンプレックスがあった」という理由もある。

お宅女子は珍しがられて需要があっても、

お宅男子はキモい(気持ち悪い)

という時代だった。

今でも私はそういう先入観でアニオタとかゲームオタとかを見てしまう。

自分に対してもそういうイメージなので、

コンプレックス(劣等感)

という言葉がそのまま当てはまる。

 

アニオタやゲームオタは、

「一般じん」に定義されるような

「実写ドラマオタ」

とかとはイメージが異なるのだ。

 

2次元オタクや3Dのオタクと、

実写オタクとは崖谷の様な溝で

かけ離れたイメージがあるのだ。

埋められない溝。

 

私は実写を見た瞬間、

私「鼻の穴とか汚ねえ…。見たくない。消えろ。」

というイメージしかない。

 

その事は正常で健康ではない精神だという思いも常にあって、

 

私は、私自身を含む、

アニオタやゲームオタや2次元オタや3Dオタを、

人間として低く見ている。

 

なので土井真由美ちゃんはゲームオタクだったけど、

私はゲームオタクの中ではヘヴィで上手いゲームオタクでもなかったし、

私自身含むゲームオタクやアニオタに差蔑的なイメージを持っていた為、

私「(土井真由美ちゃん達に私は相応しくない。)」

と常々思っていたので、

結局別れる事になったのだ。

好きだったけどね。

その事を土井真由美ちゃんはわかっていなかったらしい。

 

ちなみに鼻の穴のまわりの膨らみがきちんと膨らんでいて、膨らみの線があるひとの方が、

お金に鼻が効くので、金運が高い。

私はお金を持っていないので、

お金に鼻が効く女性には相手にされない事を本能で気付いているからか、

鼻がおっ広がっているひとは、

見た瞬間、「汚ねえ…。醜い…。」

と思ってしまう。

仏教寺院の彫刻や絵画や、黒じん種さん、なんかは、そんな形の鼻なので、全く魅力を感じない。

私ではなく、金が目当てか…。

という風に見えてしまう。

汚い者を見る様に見えてしまうのだ。

 

で、

一般じんの定義内に、オタクが含まれないので、

ゲームしたりアニメ見たりしないひと達を、

敬っているので、

高い年齢層のひと達を敬う形になる。

 

高い年齢でもポケモンGOしてるひと達を見ると、

私がどう思いたいとか関係無く、

差蔑的イメージで見てしまうので、

敬えないのだ。

私は私の心を騙せるので、

うわべは敬う様に接する事が出来るのだけど、

心は私自身を含むゲームオタクやアニオタを蔑視してしまうのだ。

それは私がどう思いたいかとか関係無く発動する感情なので、

私自身も困っている。

 

アニメオタクやゲームオタクや2次元オタクや3Dオタクや、

男性や、

パチンコやパチスロやギャンブルやるひと達や、

バイクに乗るひと達や、

言動が乱暴なひと達や、

タバコ吸うひと達や、

お酒を飲むひと達をも

「蔑視してしまう」のは、

私がコントロール出来ない無意識の反射的な感情なので、

私が起こしたくて起こしている感情ではない。

意図的であろうとなかろうと、そういうひと達やそういう物(タバコの煙など)を私に近づけて来るのは、

「私への反抗」

としか受け取れないので、

私はそういう点では頑固な潔癖症なのだ。

潔癖症にとっては汚いものは排除したい不快なものでしかない。

結局子供の頃からこの潔癖症は変わってない。

多分変わらないんだと思う。

 

 

私は2次元のイラスト絵を描くとき、

 

画家の描く様な日展の受賞作品の人物画の様な絵が

「一般社会に適合したつまらない絵」

で、

 

私は

「一般じんの社会に適合出来ない、

卑しい恥ずかしい絵」

を描いている。

 

という意識で私は描く為、

ひと様にお見せ出来ないというのもある。

 

またその私の描く恥ずかしい絵を、私自身は神聖視しているので、

「一般じんには見せたくない!」

というのもある。

「一般じんは一般じん階級らしく実写でも見てればいいよ。」

という思いがあって、

出来ればお互い不可侵にしたいと思っているのだ。

 

実写版とか

「汚くしてるだけ」

のイメージ。

 

私達とは種類が異なるんだよ。という感覚。

 

私は、

実写のオールドタイプと、

アニメや2次元や3Dに何の違和感も抵抗もないニュータイプとの、

間の、

過渡期を過ごして来た

どちらにも敏感に厳密に違和感と卑しさを感じるタイプなので。

 

実写も2次元や3Dも、

多分どちらも「つくり物作品」なので違和感があるのだ。

 

事実や現実を重んじる私にとっては、

憶測の歴史モノやSFやファンタジーモノや2次元モノやアニメや3Dなど、

「編集された物」

に違和感を感じる。

NHKのニュース防災なんかの動画だと、

アナウンサーの音声が入ってない状態の映像が流れたりする。

それは見たままなので、

それはそれでいい感じ。

男性のアナウンサーを視聴しなくて済むし。

でも「どのカットを入れるか」

とかは、

編集してあるので、

やっぱり

この世界の事実を説明している訳ではない。

 

我々絵描きなんかは、つい事実を棚に置いて「絵にしよう(編集しよう)」という心が働く。

それは庭の雑草を抜くのと同じ感覚。

でも現実には雑草は生えていて、

それも自然の姿なのだ。

でも人間生活として、雑草を抜いてしまう。

 

事実の人間には鼻の穴があるけど、

それが汚そうに見えて受け入れられないのは、

何故だろう。

 

 

また私は、

私自身が日本人のアジア人なのに、

アジアを蔑視してる面もあって、

「思想も技術も遅れている。貧しい者が多い地域」

というイメージがあって、

アジアしか旅行した事ないのに、

アジア旅行でいつも見るのはアジアの底辺のひと達の暮らしぶり。

日本の水の富んだ潔癖な暮らしに慣れているので、

衛生面が気になって仕方がない。

結局旅行先のひと達も、私も、不快な思いをしてしまう。

海外旅行に行くとだいたいが食事の衛生面が気になってあんまり食事が出来ないのだ。

 

日本生活での潔癖感覚だと、

海外旅行に行きたがる気持ちがわからないのだ。

親達の勤務の関係で海外旅行行って、

勉強になったけど、

学んだ事は、

私も貧しい貧しい言っても生活水準が異なる。

それぞれの国でもっと貧しい暮らしの中でも暮らしているひとびとがいるという事をはっきり学んだのだ。

なので私が学んだ事は、

やっぱり私が住むには日本がいい。

という事だった。

 

私だって私の暮らしを守りたい。

その為には日本が貧しくては私も貧しくなってしまうので、

日本も、世界中も、伝統や文化などは守った上で、みんなの生活水準を上げたい。

 

日本が精神的に暮らし易いとは限らない。

日本は精神的には貧しい国になったと思う。

でもアジア旅行で国々の暮らしを見て来た私の脳裏にいつでもあるのは、

 

「今の日本での貧しい暮らしより、世界にはもっともっと貧しい暮らしがある」

 

という事。

 

でも現実に自分の国の目の前のひと達が貧しさや心の貧しさで困り果てているのに、

海外まで手が回るのだろうか?

とやっぱり思ってしまうのだ。

 

自分の家がとても貧しいのに、

他の家のお世話を無料で出来るだろうか?

これは、

新約聖書のキリストの言葉にある、

「自分の目に丸太が刺さっているのに、

他のひとの目の埃を取らせて下さいと言うのか?まず自分の目に刺さっている丸太を取り除け。」

で考えると、

まず自分自身がきちんとした生活基盤が出来ていないと他のひとを助けられない

自分自身が生活に困っているのに、他のひとを助けられない

という考えとも解釈出来る。

多分キリストが言いたかったのは

見えているかどうか

のたとえだろうとは思うけど。