fatimariaの日記

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罪と罰のシステム。

人間の言葉は、

 

罪を感じているひとには罰として機能し、

求めているひとには答えの知恵として機能する。

 

仏教ではそれを

罪と業

智慧

で説明した。

 

自業自得自損のシステムだ。

 

キリスト教ではそれを

罪と罰

と知恵

で説明した。

 

 

なので報道関係がよくやる手口なのだけど、

「陥れたい相手には

罪悪感さえ感じさせれば勝ちだと勘違いしている」。

しかし

キリスト教徒には罪悪感が効かない。

むしろ責め立てている事柄はすべてバックファイアしてしまう事を知らない。

 

何故

ローマ帝国キリスト教の弾圧

日本のお殿様達がキリシタンを弾圧

して来たかというと、

キリスト教徒が死ぬ事殺す事に罪悪感を感じずに戦う事が、

大変おそろしかったからだ。

 

それを漫画「バスタード!!」では

細胞が破壊神の組織に侵されて(回復して)いると説明している。

 

 

私は警察に捕まったとしても、

事実と真実をあけすけに全部話して説明すると思う。

それによって刑務所に入れられたとしても、

無期懲役とかはまず難しい罪状だろう。

私には何も無いので、童貞くらいしか無いので、

罪を償う方法は懲役位しか無いかもだ。

殺じんでも数年で出て来れる事がある事を考えると、

直接誰かを殺した事が1度も無い

私への罰は、

前科者への社会的中傷位かもだ。

しかしもし私がその前科について罪悪感を感じていなければ、

効かない事になる。

しかし前科というレッテルそのものに対しては無力だろう。

 

以前ブログで説明したけど、

私には自動車の玉突き事故で前科が既にある。

多分1回ぶつかったときに何が起こったかわからず、反動で後ろに下がったときにアクセルとブレーキを間違えていて、同じ自動車にそのとき2回ぶつかっている。

誰も外傷は無いし、誰も死んでないので、懲役刑は無かったけど、

1回ゴールド免許が青色免許に戻っている。

またゴールド免許になったけど。

とうさんの先祖への毎年の法事に行くときの事故なので、

縁起が悪いのでそれから法事へは行かなかった。

キリスト教徒なのに浄土宗の法事へ急いで向かっていたときの事なので、

宗教を超えようとしたときの不安感や後ろめたさが事故へと繋がっていたので、

キリスト教徒としては、むしろ行きたくない仏教の法事へ行けなくなる理由になっていて、事故に巻き込まれたひとには悪いけど、私には悪くない事故だった。

 

それが私の前科であり、

私の前科は私を責めるどころか、

私を更にキリスト教へと惹き込んでいる。