「うっさい」
だって。
五月蝿いだとベルゼハブになってしまうので、五月蝿いは言えない点については、私と同じ心の病気なのかも。
でもうっさいの元の言葉は五月蝿いなんだけどね。
なので私は「じゃかましい」を使っている。
私の産まれた時間の天頂の星座(天職座)は牛飼い座(やかましいと言う者)。
ひとびとの言葉がいちいち引っかかる年齢なのかもね。
それは引っかかる事柄をひとつひとつ、外れて引っかからなくなるまで心の傷を癒して埋めていかないといけない。
象徴的に無理矢理反抗すると傷が広がる可能性がある。でもときには外す為に必要かも。
たとえば
魚の口に引っかかった釣り針を外すとき、
魚が痛そうとか考える私には魚の傷をグリグリ広げて思い切って釣り針を外すという事も、
魚釣りをすすんでするという事も、出来ない。
「魚が痛そう」とかには無神経でいられるひとが、魚釣りをするのだ。
なので私は引っかけたくない。
軟派も1回もした事ない。
うっさい
の
1シーンだけ見たけど、
凡なひとの方が、非凡なひとより勝れてるのにね。
凡なのに生きている事が出来ている点で、非凡なひとより勝れているのだ。
非凡なのに不幸なひといっぱいいるよ。
凡なのに楽しく生きているひといっぱいいる。
たとえば、
商業芸術の絵は、80%の力で100%の絵を仕上げないといけない。それが凡。
芸術家の絵は、100%の力で100%の絵を仕上げたらいいだけなのだ。
その違いがわかるだろうか?
普通のひと(凡なひと。平凡なひと)の方が、
非凡なひとより勝れているという事だ。
凡(平凡)なひとの方が生活も安定している。
自然(凡)と
超自然(非凡)も
同じ事が言える。
超自然は瞬間的なので人間には驚異的に見えるかもだけど、
物理法則を「紡ぎ続けている」自然には、
到底敵わない。