とうさんの教職員共済から更新のお知らせが来たので、
私はとうさんの医療費がそこから落とされてないのはおかしいんじゃないかなぁと思って、
老人ホームに電話してみた。
老人ホームの職員さんは、「それは(医療費もあるけど)生命保険なんでしょ?診察ぐらいはあるけど、障害と介護は違うけん!」
と怒っていた。
私は医療費がそこから落とされるなら、老人ホームのひとは何も困らないはずなのに何を怒っているのかわからなかった。
脳梗塞で障害が残っている場合には適用されるはずなのだが、
とうさんは障害が残っているから介護を受けているはずなのに、
老人ホームの職員さんが「そこは共済のひとに聴いてください」と激しくシャッターを閉める理由について、少し考えた。
老人ホームの職員さんが、とうさんが死んだときの我々の為に、お金を少しでも多く残す事まで考えてくれているとすれば…。
私の、深く考えない、「手紙来たけどこれなんだろ?」的な目前の事しか見えてない言動は、
多くの管理者にとって、
腹が立つ言動や、困った言動なのかもだ。
私は場当たり的に言動しているので、
多くを見据えて管理しているひと達の気持ちに反する言動しているときはあるかもだ。
私が
「目の前に置かれた問題や課題を急いで処理して安心したい」
といつも思っている事は、気がついていてほしい。
気がついていたら、
私に「何故わかってくれないんだこいつは!」
と思う事が減るかもです。
私には全体や未来は見えていなくて、
私に見えている範囲は狭くて小さくて近くしか見ていないので、
全容が見えているひとには大した問題でもない事すら、
問題をすぐ近くでしか見てないから、とてもとても大きな問題の様に見えて、
それで私は大騒ぎするのだ。
私がいつも言う「私には見えてない。見えない。私は盲目だ。」
というのは、
「全容や大局や状況は、私にはいつも、今も、見えてない。」
という事を説明している言葉なのです。
単に目が見えないとかいう意味ではないのです。
「今頭に浮かんだ。じゃあその事を 今 ブログに書いておこう。」
といった感じです。
私の頭に浮かべるタイミングを間違えたら、
私が大きな間違いをしている様に見えても、
私には私に与えられたときや、自分の機会で、言動しているので、
ピンポイントに私に「こうしてほしい」という事柄があるなら、
私の衝動そのものを管理していないといけない。
しかし私は本意でない衝動ってなかなかしようとしない、尻が重たいインドア派なので、
何かさっさと解決した方がいい事柄や課題は、
私は「出来るだけ早くに済ませてしまっておこう」と心掛けているので、
たとえば「明日になれば100円安くなる商品は明日になるまで待てばいい」という状況でも、
「明日買うのを忘れるかもだから、必需品は気付いたときに買っておこう!」
という感じなのだ私は。
その安さのメリットよりも、
忘れてしまう事のリスク対処の方を重要にとってしまうのだ。
実際頭からすっぽり抜けてて、
重要な事もよく忘れたりした。
「私が思い出したとき」のタイミングをきちんと管理出来ていなければ、
「タイミング(間)が悪い」
なんて事は頻繁にあった事だ。
歳をとると物忘れが酷いとか言うひともいるけど、
私は歳をとる以前から、
子供の頃からそうだったのだ。
なので「場当たり的な言動」に見えてしまうのだろう。
「うっかり忘れるのがこわい」から。
テスト中にテストの事を忘れていて我に帰るなんて事は、ほとんど毎回、しょっちゅうだった。
かあさんはその事を「集中力が無い」と批判して来たけど、
それを防ぐ具体的な対処方法までは教えてくれなかった。
私は緊張して集中しようとしても、
緊張っていつまでも続けるのは無理なので、
たとえば、
「主人が帰って来るまで起きていよう」
と、
不眠の警戒を、
毎日毎日、常にしていると、
警戒心が突然無くなって、眠ってしまう。
警戒心や緊張も、尽くせば尽きてしまうのだ。
私は自分の緊張感などもう使い物にならない事に気付いている。
なので私が無警戒、無防備、無頓着に見えるのだろう。