fatimariaの日記

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他のひとの幻聴。

病院内で私と話していた男性患者に、どんな幻聴が聞こえるか聞いてみた。
言葉の内容が、「私がよく言っていた言葉」が聞こえているようだった。
そこでその幻聴が私の声かどうか聞いてみた。
すると、私の声色ではないとはっきり言われた。
 
そう言えば私も、
私の心の中に聞こえていた幻聴は、
今まで現実で聞いた誰にも当てはまらない、男性とも女性ともつかない声であった。
ても系は特にそうだった。
女性の声色の幻聴もあったが、基本的に、基調の幻聴が、男性とも女性ともつかない、ても系だったのだ。
 
そこで私は推測した。
私が言っている事になっている、みんなに聞こえていた幻聴は、私の声が、都合のいいように編集されて聞こえていたのではないか?と思うのだ。
みんな大勢それぞれが思う事について、私一人が管理できるはず無いもの。
だいたい私にはみんなの声が聞こえていない。
 
 
前回の大地震津波が起こったあと、私に急性期が来て、入院するまでの間に、
お経や呪文の詠唱のように、早口言葉で複数の幻聴がブワーーっと流れた事があった。
私はそれを聞き取ろうと思ったが早過ぎてできなかった。
あとで思ったが、それは早送り再生だったのではないだろうか?と思った。
 
みんなが聞いている幻聴音声と、私が聞いている幻聴音声とは、タイムラグがあった事は、
このブログでも説明した。
早送り再生する事で、時間をみんなと同じに合わせたときの早送り再生音声だったのではないだろうか?
と思っている。
 
ある女性患者が退院するとき、その男性患者に、「考え過ぎられんよ。(考え過ぎないようにね。)」と言った。
 
よくない幻聴を聞いているという患者は、自分の都合の、悪いように悪いように勝手にストーリーを構築してしまう。
それについて私を悪者にされても、都合の悪いように考えているのは、聞いているひとの方なので、私にはどうにもできないのだ。
 
9月7日、かあさんが中央病院の駐車場の車内で死んでいるヴィジョンを見たが、
その日の夜、かあさんは私に会いにきた。
また、実際の中央病院の駐車場は、ヴィジョンとは異なっていた。
 
2回目に座薬を入れた若い男性看護師さんと、男性看護師さんのふたりが、私の拘束を解きにくるヴィジョンを見たが、結局別の看護師さんが拘束を解いた。
 
ヴィジョンを見た事は本当だったとしても、自分が見るヴィジョンはあてにならないのだ。 
聖母との事も、私が確かに眠っているときの夢を見たとしても、「眠っているときの夢」なのだ。現実ではない。
眠っているときの夢が録画されていたとしても、録画されていたら、私だけが見ているわけではない事になる。
眠っているときの夢が私を助けてくれたとしても、私を苦しめたのも眠っているときの夢なのだ。
 
戸籍上のとうさんなんか、私の眠っているときの夢の中で何度も死んでいる。
私の戸籍上のとうさんが死ぬヴィジョンのシチュエーションが「複数ある」のはおかしな話じゃないか。
眠っているときの夢なんて、あてにならないんだ。
上記の事で、眠っているときの夢の内容が、「これから起こる事」だと信じる事ができなくなってしまっている。
 
 
私は幻聴に言われた事無いが、幻聴に「死ね」とか言われても、幻聴には殺す権限が無いから、みんなはまだ生きているのだ。その事実をそのまま受け入れたらいいんだ。
自殺したひとは、自殺なんだ。他殺じゃない。幻聴には殺す権限は無いんだ。
 
むしろ、ポジティヴに、自分の都合のいいように考えると、段々そのようになって来る。
不吉な方向に思い込むから、段々そういう方向に向かって行く。
寿福な方向に思い込むから、段々そういう方向に向かって行く。
人間の信じる力とは、そのようにおそるべき力なのだ。
 
 
心の視野が狭くなると、少しズレただけでも、目標を見失ってしまう。
望遠鏡で惑星や月などを見た事があるひとは、そんな経験があるだろう。
 
そんなとき、望遠鏡内ではなく、肉眼で見てみて、だいたいの照準を合わせる。
つまり広い客観視点で目標を見るのだ。
その上で、また望遠鏡を覗けばいいのだ。