fatimariaの日記

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情欲 と 罪(アマルティア)

聖書にはこう書いてある。
情欲、欲望、貪欲、望み、願い(epithumia エピスミア。女性形単数)
 
ガラテヤ 5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(サルカ)を、さまざまの情欲(願い)や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
エフェソ 4:22
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
フィリピ 1:23
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望(情欲、願い)しており、この方がはるかに望ましい。
コロサイ 3:5
だから、地上の肢体(メロス)、すなわち、不品行、汚れ、情欲(願い、望み)、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
1テサロニケ 2:17
兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望み(情欲、願い)ました。
1テサロニケ 4:5
神を知らない異邦人のように情欲(願い、望み)におぼれてはならないのです。
1テモテ 6:9
金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望(情欲、願い)が、人を滅亡と破滅に陥れます。
2テモテ 2:22
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
2テモテ 3:6
こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、
2テモテ 4:3
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手(情欲、願い)に教師たちを寄せ集め、
テトス 2:12
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
テトス 3:3
私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情(情欲、願い)と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
ヤコブ1:14,15
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
そして、欲望(情欲、願い)ははらんで罪(amartiaアマルティア)を生み、罪が熟して死(タナトス)を生みます。
1ペテロ 1:14
無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1ペテロ 2:11
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲(情欲、願い)を避けなさい。
1ペテロ 4:2,3
それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
2ペテロ 1:4
この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
2ペテロ 2:10
特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。
2ペテロ 2:18
彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲(情欲、願い)やみだらな楽しみで誘惑するのです。
2ペテロ3:3
まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
1ヨハネ 2:16,17
なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲(情欲、願い)、目の欲(情欲、願い)、生活のおごりは、御父から出ないで、世(コスモス)から出るからです。
世(コスモス)も世にある欲(情欲、願い)も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠(アイオナ)に生き続けます。
 
その父なる神である火(舌)が不正のコスモスなんだよ。
 
ユダ 1:16
こういう者たちは、自分の運命(運命という単語は原文には出てこない)について不平不満を鳴らし、欲望(情欲、願い)のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。
ユダ 1:18
彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望(情欲、願い)のままにふるまう。」
ヨハネの黙示録(啓示)18:14
お前の望んで(情欲、願い)やまない果物は、/お前から遠のいて行き、/華美な物、きらびやかな物はみな、/お前のところから消えうせて、/もはや決して見られない。
 
 
新約聖書では願い(望み。情欲。アズ)は殺すべきメロスのひとつであって、情欲(願い)は、殺さなくても、すでにキリストと信者の肉(サルカ)と共に十字架にかけられて死んだ事になっている。
夫婦は一つの肉(サルカ・ミアン)である。夫婦は十字架にかけられてすでに死んだ事になっている。
 
死は情欲の孫で、情欲の子である罪(アマルティア)の子としている。
この情欲(アズ)がはらんで産んだ、「罪」と訳されている「アマルティア」とは、ゼウス(デウス)をそのお乳で育てた山羊の事である。その山羊(罪)の子がタナトス(死)とヒュプノス(眠り)という事になる。
タナトスヒュプノスの双子2柱は、不可避である神だ。
この2柱には人間は結果的に勝つ事ができない。
睡眠欲を司る仏陀(水星)さえも、
キリストさえも、
眠った、死んだ、事が書かれている。 
 
 
「願い事、望み、煩悩、情欲(アズ)」などとっくに約2千年くらい前にキリストと共に死んでいるのだ。
アッラー(アーリマン)に情欲という武器はもう無いのだ。
同時に、生物(有情)達が、生きて行く、子孫を残して行く、欲求、望み、願いというものと、罪が、すでに2千年くらい前に死んでいる事を示している。
 
しかしキリストと共に復活しているかも。(私「殺した意味が本末転倒やなそれ。死んだ意味無いし。」)
キリストが背負って死んだ、死(タナトス)と眠り(ヒュプノス)の母の、「罪」である雌山羊は、復活しているかも。 
「罪」は罪に定めるものがいれば発生するのである。
夫婦も、肉も、情欲も、欲望も、望みも、願いも、罪も、キリストと共に復活しているかも。
捨てたら倍になって返ってくるのである。
どんどんゴチャゴチャウザくなってくるだろう。ウザい←有情い。
律法も捨てたら倍になって返ってくる。罪も倍になるわけだ。
持っているものはさらに与えられ、持っていないものは持っているものをも奪われる。
実に不安定な言葉だ。世捨てびとや引き篭もりが増えるわけだ。
 
その罪の発生の原因は「善悪の知識(善悪のダアト) (原罪。法の制定)」。
法は、火星の領域であるディーン、善悪の知識は、冥王星の領域であるダアト(知識、認知)にある。
(両柱はひとが死ぬ事をよろこぶ。)
善悪の知識の木は、太陽の領域であるティフエレトにある。
生命の木である葡萄の木は、ネツァク(ネツァーハ)にある。
これらはエデンの園の中央にある。つまりセフィロトの木による「エデンの園」とは旧約聖書の記述と異なって、「太陽系あるいは天」の事なのだ。
 
罪の発生はディーン(法)、ゲブラー(力)、ガブリエル(神の英雄)、万魔殿(パン・デーモニューム)、レヴアタン(地獄)…などを定める事。
事実と異なるかどうかではなく、「人間として正しい、正しくないが発生する」
「(いましめたい などの)怒りが発動する」
という事は、罪に定めている=罪が発生している という事なのだ。
これがないと正しい法側、阿修羅マズダ側である悪魔達はする事がない。
この正しさによる違和感が、罰するものである悪魔達の活力なのだ。
よい方(罪に定めない方)は不正のコスモス(火、舌)であるバプティスマ(洗礼)であるゆるしの塊であるエン(1の中性形)だけである。
エンは何度も泣きつくから不正にもゆるしたのであって、さらに他の者をゆるさないのであればゆるされないのだ。
このときになって、不正のコスモスである自分の舌(火)がおそろしい方である事を知る事になる。
はじめに好き勝手にさせておいて、あとできっちり徴収するのだ。
好き勝手やらなければよかったという事にあとで気づくのだ。
おそろしい方だと知っているなら不正のコスモスは期待通りに行うだろう。
思い通りとは、ネガティヴ(否定的)(シュン)な想像者に味方しない。
雌山羊である罪がキリストと共に復活したのであれば、罪のゆるしによる救いは、何を救ったのであろうか?
救世主とは、世(不正のコスモス。父なる神)を救う主の事なのだ。
ソーマであるキリストは父なる神オンリーの平和(エイレーネー。イレイネ。アイリン)の神なのだから。信者達を受け入れる器は持っていない。12使徒達の事でさえ、キリスト「あなた達は私が行くところについて来る事はできない。」としている。
 
 
1コリント 7:9
しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がす(原文には情欲は無く、火(プル)がつく とだけ書いてある)よりは、結婚した方がましだからです。
 
つまり、世(コスモス)である火(プル)である神と情欲は過ぎ去って行くもので、
火がつくよりは結婚した方がましだから、自制できなければ結婚しなさい
と、新約聖書では説いている。
 
1コリント 7:36
口語訳
もしある人が、相手のおとめ(parthenon パルテノン。処女の女性形単数)に対して、情熱(思い。nomizei 情欲とは異なる単語が使われている)をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。
新改訳
もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。
新共同訳
もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。
 
この、「二人は結婚しなさい」は、キリスト教が「処女との結婚が1夫1妻制」である事を表している。
処女(パルテノン)に、結婚しなさい と書いてある。
 
でもここにメロス(肢体)のひとつである情欲(願い、望み)は出てこない。