fatimariaの日記

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キリスト教徒はキリスト教徒を殺さなければならない。

キリスト教徒はキリスト教徒を殺さなければならない。
キリストが来たのは分裂(分離)をもたらす為だ。
信者がメロス(melos からだの一部。つまり他の信者)を殺さなければならない事は聖書に書いてあるのだから。
壊疽をおこした所を切り取るようなものだ。
 
メロス(melos)
口語訳聖書 肢体
新改訳聖書 手足、器官、からだの諸部分
新共同訳聖書 五体、部分、一部
 
新共同訳ローマ12:5
わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体(ソーマ)を形づくっており、各自は互いに部分(メロス)なのです。
新共同訳1コリント6:15
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
新共同訳1コリント12:25
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
口語訳ヤコブ4:1
あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
 
口語訳コロサイ3:5
だから、地(ゲー)上の肢体(メロス)、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
新改訳コロサイ3:5
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
新共同訳コロサイ3:5
だから、地上的なもの(メロス)、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
 
このコロサイの信徒への手紙はパウロとテモテが書いたもので、殺してしまいなさい は命令形で書いてある。
 
新共同訳では、地上的なもの と訳して、メロスを殺す事を隠してある。どんなに隠蔽しても、原文は結局メロスを殺す事なのだ。
このように原文を読まないで訳文だけ読んでいるとキリスト教のベールに騙されているのだ。
実はこのように聖書には解釈の仕方によってはとんでもない事が書いてあるのだ。
ソーマ(soma。聖体。)がキリストのからだである葡萄の木であり、メロス(melos)がそのキリストのからだ(ソーマ)の一部である信者達である。
 
全身(全ソーマ。キリストのからだ。聖体。)を汚すのが不正のコスモスである舌(火)だ。
聖体拝領、聖餐式がその儀式だ。
 
キリスト教信者が殺す相手はイスラム教徒でも悪魔でも天使でもない。キリスト教信者だ。
キリストとパウロは剣をとって内乱せよと言っているのだ。
まず家族のものが敵になる。家族って誰だ?信者だ。神と神の子達だ。
汝の敵を愛せよ。迫害するもの(悪魔)の為に祈れ。その頭に炭火を積む為に。炭火は彼らの活動源だ。
エイレーネー(平和。イレイネ。アイリン。)の神は、火(舌。不正のコスモス)を投げ込む為に、剣をもたらす為に来た。
 
信者は、誰も(ペテロやヨハネヤコブマグダラのマリアさえ、)受け入れようとしないキリストを信じた者達なのだから。(すぐに気付けよ。)(読者よ、気付け! って書いてある。聖所に立つ者が誰であるのか。)
 
自分が、初代教皇ペテロや、福音書記者ヨハネや、妻であったとも言われているマグダラのマリアを超えられる者かどうか算段してみろ!
 
批判してるわけじゃないよ。聖書に書いてある史実を説明しているだけだ。
また 諦めろって言ってるわけじゃない。すべてを捨ててキリストについて行く覚悟があるならついて行けばいい。
私はキリストの為にキリストさえも捨てられる。それも信じているからできる事だ。
 
キリストはこの世に嫌気を感じてこの世から父なる神に逃げ出したのに、信者はこの世(コスモス)を父なる神としたのだから。
「あなたと私となんのかかわりがあるか!」と言ってキリストが最後まで突き放していた聖母マリアを、信者達は無理矢理高く掲げてキリストのそばに置いたのだから。
信者はキリストの気持ちなど何も理解していない阿呆どもだ。
自分達の正義感の方が正しいと思っている。そのじつ、唯一の神は、不正(不義)のコスモスなのだから。
不正である神を信じていないのか?信者ども。
神は「同じだけ払う」とたとえられている。だから不正だ。
ひつこく頼むから叶えてあげるから不正だ。
頑張ったら頑張った分だけ(民主主義) とか、先に信者になったのだから(年功序列) とか、無い。
隠しておいたものから取り上げられた「多くのもの」を任される事は名誉な事だと思うだろうか?
律法全部守れるか?任される「多くのもの」とは法の事だ。
任されたものはがんじがらめのボンデージ状態。
隠しておかれた宝を見つけると、畑ごと買い取るものがいる。
天国。ウラノス達の国だ。
 
聖書にはキリストを求めよ とか 神を求めよ とは書いてない。
「第一に御国が来る事を求めなさい」って書いてある。
 
地獄の火である神が、天の御国におられるとすれば、
天の御国が蛆の尽きない地獄であるか、あるいは、
天にいます父なる神である火が、永遠のもの(地獄の火)ではない という事だ。
ヨハネの黙示録(啓示)に視覚的に現れた父なる神は、「滅びる、永遠ではないもの」なのだ。聖書に書いてある事だ。
純粋に信じれば、
永遠ではない父なる神は地獄の火ではなく、この世(コスモス)で、
蛆の尽きない地獄が永遠である。
という事になる。
 
それでも信者は御国が来るのを求めないといけない。
 
第一に御国が来る事を求めないといけないのに、キリストのすすめた「ロザリオの祈り」を見てみよう。
 
御名があがめられ(聖別され)ますように
御国が来ますように
 
と第二に書いてある。
第一に求めよ なんでしょ?御名よりも。
これも矛盾点のひとつだ。
みなキリストにつまづく。隅の親石に敵うわけがない。「もうやめなさい」
 
それに気付かずに「ロザリオの祈り」を大事に祈る者達がいる。神は長々と祈る事を望んだりしない。
「あ、そーですか」
そーですよ。薬飲むの忘れてた。
ロザリオの祈りはつまづきの石のひとつだ。いつ気付くか、知っているものは楽しみに見ているのだ。
キリストは聖書のいたるところにつまづきの石を置き、くぐり抜ける道が無い事に気付いていない信者をつまづかせ、悔いさせ、改めさせる。
自分の失敗でキリストに受け入れてもらえなかったと考えるのはおかしい。
つまづく事はキリストがはじめから置いていた技なのだ。
信仰においてもつまづくのが当たり前という事だ。つまづかない方が神を冒涜しているのだ。
つまづいて悔い改めるからよしとされる。
天を仰いで高慢にしている状態をキリストはよろこんだりしない。つまづいて、うつむいて、地を見よ。
心から自信無さそうなものを励ます、うつむいて心沈んでいるものを励ます事を、キリストはよろこぶのだ。
うつ病のひとなんか、適任だろう。
「どうせ…。」と思っているひと程、励ましがいがあるのだ。
ただ、断食をするときは暗い顔をするな とは書いてある。
 
御国とは?天国とは?
今のひとに「天国は近づいた。」って言えば、死にかけ?死ぬの? って思うだろう。
貧乏人の方が天国が近いのだ。
御国が来るのを求める→死を求める→自殺の奨励?
しかし自らがピリオドを打つ自殺では、御国が「来る」とは言えないだろう。
 
「御国が来る」=「殺される事」の奨励だ。それが殉教だ。
それを第一に求めなければならない。
イスラム教徒に殺してもらえばいい。イスラム教の聖典に 異教徒を殺せ って書いてあるのだから。
あるいは他の信者に殺してもらえばいい。
従順にいましめを守るものを神はおよろこびになる。
羊は食料になるから放牧されているのだ。
動植物の死骸を食らうものども。
 
誰でも父なる神から「死」を支払われるのだ。
頑張った分だけとか、先とかあととか、生きた時間とか、死に方とか、関係ない。
誰にでも「同じだけ」。
 
富んでいるものにも、貧しいものにも、太陽を昇らせる神。「同じだけ」。
楽しく明るく生活して、従順に「死」を待っていればいいんだ。
聖マティアスがなんの為に居るか、神の業はひとの努力に寄らない事を示す為だ。
努力して自殺するのは神を信じる行為とはされない。だから細川ガラシャは自害できなかったのだ。
「なーるーほーどー」
楽しく明るく生活して、従順に「死」を待っていればいいんだ。
 
「差別はいけない」と教育されてきた私達なのだが、「無差別殺人」とか聞く。
差別はいけない事なんでしょ?無差別はいい事なんでしょ?
大震災が、差別している、区別している、とはとても思えない。